お知らせ

当市のオンライン移住相談がNHKで放映されます

 

5月下旬よりスタートした鶴岡市の「オンライン移住相談」。

その様子や今後の鶴岡市の移住への取り組みについて、この度NHK「やままる!」にて放映されました。

放送日:2020年6月11日(木)NHK総合 18:10~19:00 (※放映終了)

放送のテーマは「記者特集:テレワークでふるさとへ。」

テレワークを活用し、都市部での仕事を地方で行うテレワークスタイルを実践している佐藤さんは、当市の移住相談も利用しながらUターンの準備を進め、Uターン移住を果たしました。

鶴岡市への移住を検討している移住相談の様子なども取材いただきました。

放送内容のダイジェスト版をこちらからご覧いただけます。

今後の放映スケジュールは以下の通りです。

NHK 総合 6月26日(金)18:10~19:00

NHK BS4K  ※近日放送予定

なお、移住相談は引き続き実施しておりますので、お気軽にお問合せください。

【開催中止】第4回東北U・Iターン大相談会に出展します

2020.7.7 東京都での新型コロナウイルス発症者数増加にともない、主催者判断により中止となりました。
 参加を予定していた方々には大変申し訳ありませんが、なにとぞご理解くださいますよう、よろしくお願いいたします。

東北6県(青森県・岩手県・宮城県・秋田県・山形県・福島県)が集合!
年に1度の東北エリア合同の 移住大相談会、今年も開催します!

鶴岡市も昨年に引き続き出展!します。
ぜひ気軽にお問合せ&ご相談ください。

(下記リンクより事前申込いただくと当日の入場がスムーズです)

 

日時 2020年7月12日(日)
11:00~16:30
場所 東京交通会館12階ダイヤモンドホール(東京有楽町)

参加費用 無料
関連リンク(拡大チラシ・事前申込もこちらから→) https://www.furusatokaiki.net/seminar_detail/?event_id=211814

 

【新型コロナ感染拡大防止対策についてご協力のお願い】
● 会場内では常時マスクの着用をお願いいたします。
● 入場時等、適宜アルコール消毒の実施をお願いいたします。
● 受付での検温、体調確認及び個人情報チェックシートの記入をお願いいたします。
● 会場内でのソーシャルディスタンスの確保にご協力をお願いいたします。
● 混雑時の入場制限等、3密対策のため入場に関して制限を設ける場合がございます。
何卒ご来場の皆さまのご協力をお願いいたします。

UIターンに関する各種支援 リンク一覧

知ってて得する支援制度

UIターンに関する各種支援のホームページリンク一覧です。ご活用ください。

就職支援


 

〇鶴岡ワークサポートルーム

市内事業所とUIターン希望者との就職のマッチングを無料で行っています。

詳しくはコチラ(鶴岡ワークサポートルームのページへ)

〇鶴岡地区雇用対策協議会

UIターン希望者向けに市内企業とのマッチングや情報提供を行っています。

詳しくはコチラ(『つるおか仕事ナビ』のページへ)

 

起業支援


〇庄内産業振興センター

これから独立・企業しようと考えている方や起業して間もない経営者をバックアップするために、起業家育成施設の運営、起業家応援セミナーの開催、開業準備の基礎知識から創業後の経営指導まで行うワンストップ相談窓口『B-Support』を設置しています。

詳しくはコチラ(庄内産業振興センターのHPへ)

 

〇鶴岡ナリワイプロジェクト

好きなこと・得意なこと・役立つことで小さく起業する(=ナリワイ)新しいビジネスモデルづくりを支援しています。

詳しくはコチラ(鶴岡ナリワイプロジェクトのHPへ)

 

就農支援


 

〇UIターン就農者支援事業補助金

UIターン就農者の住宅家賃及び農業機械・ハウスリース料・農地賃借料に対して補助金を交付し、担い手としての着実な成長を支援します。

詳しくはコチラ(鶴岡市農政課HP)へ

〇新規就農アドバイザー

新規就農に関する相談や就農者への現地誘導・面談等を通し、新規就農者の栽培技術向上や安定した農業経営の確立を支援します。

住宅支援


 

〇NPOつるおかランドバンク

「空き家バンク事業」を通じて、市内の空き家・空地の情報を発信し、購入希望者と所有者を繋ぎます。

詳しくはコチラ(つるおかランドバンクのHPへ)

 

〇若者世帯新築支援事業補助金

若者世帯が住宅を新築する場合、その経費の一部を助成します。また、「移住」かつ「婚姻」または「子育て」のいずれかに該当する場合は加算して助成します。

詳しくはコチラ(つる家NetのHPへ)

〇住宅リフォーム支援事業補助金

自己が所有し、居住する住宅を市内業者がリフォーム又は耐震改修等の工事を行う場合、その経費の一部を助成します。また空き家を取得しての工事や市外からの移住世帯の場合は、上乗せ助成いたします。

詳しくはコチラ(鶴岡市建築課のページへ)

〇お試し住宅

県外在住の移住希望者(転勤、市在住者との結婚、進学を除く)の方を対象に、市営住宅を定額で提供(1か月~最長1年間)します。

詳しくはコチラ(鶴岡市建築課のページへ)

 

移住支援


〇移住支援金

東京23区に居住・通勤していた方が、山形県のマッチングサイトに掲載された中小企業に就業した場合、移住支援金として最大100万円を支給します。

詳しくはコチラ(山形県移住支援金対象求人サイトのHPへ)

〇移住世帯向け食の支援事業

山形県外から移住された世帯に対して、米・味噌・醤油を1年分提供します。

詳しくはコチラ(山形県のHPへ)

 

子育て支援


〇医療費支援

中学3年生までの医療費自己負担分を無料にします。

詳しくはコチラ(鶴岡市国保年金課のHPへ)

〇保育料支援

第3子以降の0歳児から2歳児までの保育料を無料にします。また、3歳児から5歳児までの副食費を無料にします。

詳しくはコチラ(鶴岡市子育て推進課のHPへ)

 

婚活支援


〇つるおか世話焼き委員会

市の養成プログラムを修了した”婚シェルジュ”が婚活をお手伝いします。

詳しくはコチラ(鶴岡市地域振興課のHPへ)

 

2020.5.31「オンライン全国移住フェア」に鶴岡市が出展します

~「オンライン全国移住フェア」に鶴岡市が出展します~
2020.5.31(Sun)開催!

ご自宅から全国の自治体&団体への情報収集&移住相談ができるLOCONECT主催「オンライン全国移住フェア」に鶴岡市も出展いたします!

もし当日日程にご都合がつかない場合でも、鶴岡市ではオンライン移住相談は行っておりますのでそちらをご利用ください。
日本全国の自治体&団体さんの魅力に出会える1日です。

「オンライン全国移住フェア」~ Vol.2~
開催予定日時:2020年5月31日(日)10:00~17:00
参加費 :1000円
※利益金は日本赤十字社に寄付いたします。
主催:Local Creation Office LOCO(山口県周防大島)
後援:周防大島町
お申し込み先→  https://loconect.thebase.in/

オンライン移住相談開設のお知らせ

オンライン相談 オンライン移住相談 オンライン相談

鶴岡市地域振興課では、オンラインでの移住相談窓口を開設しています。
この機会に是非お気軽にお問い合わせいただければ幸いです。

【お申込み手順】
1)下記申込フォームよりお申込みください。
オンライン移住相談申込フォーム

2)担当者より、メールまたはお電話にて折り返しの連絡をさせて頂きます。
※事前に資料の送付をお願いする場合がございます。

3)オンライン相談ご希望のお客様は相談日程までに、zoom アプリのインストールをお願いいたします。
※PCやスマートフォンの使用環境、アプリのダウンロードについては、zoom の web サイトをご確認ください。
https://zoom.us/

※動画や音声を含む通信となるため、通信量制限のないインターネット環境下でご利用ください。
※オンライン相談のお時間は最長30分間程度とさせて頂きます。

No.39 2度目のUターン。やりきった先に広がった「地元への愛」

 

本間成実さん(28歳)。鶴岡市堅苔沢地区(国道7号沿いに位置する海に面した地域)生まれ。高校卒業後に千葉県へ進学し、管理栄養士の資格を取得。卒業後地元に戻り、給食センターに就職するものの、1年で辞め、再び上京。2019年に2度目のUターンを果たし、現在は地元の保育園に勤務。

2度目の上京

Q.1度Uターンされた後、上京されるまでの経緯を教えてください。
A.大学卒業後、一度、地元に戻って来て働いてみたのですが、「やりたいことを見つけて帰ってきた」というよりは、「1人っ子だったため帰らなければいけないという義務感から帰ってきた」というのが正直なところでした。 本当に自分がやりたかったことは何だったのだろうと思うことも多く、日が経つにつれて心の中には「やり残した感」があふれてきました。また、当時の仕事が給食センターの調理だったこともあり、子どもたちが食事をする姿を近くで見ることのできる環境にいたいと思うようになっていきました。でも、保育園直営での調理場というのはこの辺ではほとんどなかったので、じゃあ思い切って外に出ようと思いました。「今度こそ自分のやりたいことをやる」と決意し、就職先も決まらないまま、家族の反対を押し切って再び都会での生活を始めました。

上京しても地元への愛は消えなかった

Q.希望していた仕事は見つかりましたか?
A.はい。上京後1ヶ月半でどうにか職場が決まりました。生活がかかっていましたので、即日勤務でお願いしますと。住んでいたのは千葉県だったのですが、職場は茨城の保育園でした。電車で30分くらいの通勤距離でしたが、子供達の笑顔を見ながら料理を作る理想の仕事だったと思います。

Q.家族の反対を押し切ってまで上京され、充実した仕事に就かれたわけですが、地元とは疎遠になっていきましたか?
A.いえ、そんなことはありませんでした。勢いで上京したはずだったのに、やっぱり地元のことが好きで、夏休みや正月だけでなく、2.3ヶ月に1回は地元に帰っていました(笑)。おじいちゃん、おばあちゃんに逢いたかったというのが大きかったのですが、戻ってきたときは、私が通った保育園へも顔を出しに行ったり、保育園で開かれるイベント(例えば波渡なすの栽培)といった手伝いもしたりしていました。そんなことを繰り返していると、純粋に家族や地元の人と逢うことが楽しみになっている自分がいて、帰るたびにこうした人々や地域に関わっていたいと思うようになりました。

想いを深める体験プログラム(マイプロ部への参加)

Q.帰省される以外にも、地元との繋がりを求めて何か行動されていましたか。
A.はい。地元への想いが高まってきたそんなときに、鶴岡市が主催する「2017年度マイプロ部」のことをSNSで見つけ、参加することにしました。この「マイプロ部」というのは、地域における様々な活動への参加を通じて、私なりの地域への関わり方を模索する体験プログラム(「私の(マイ)プロジェクト」の略称)のことです。実際に参加してみて感じたことは、そこに住む人々の生の声を聞き、一緒に作業を行うことで、自分一人では決して知りえなかった地域の魅力をたくさんたくさん見つけられたことです。また、ここで知り合ったメンバーとは、一緒に旅行に行ったり、モンテディオ山形の応援に行ったりするなど、山形のことで盛り上がれる関係を築くことができました。

つながり、ひろがる世界(料理を通して見えてきたもの)

Q.マイプロ部に参加されて、帰郷する決心がついたのですか?
A.いいえ。終了時点ではまだ帰ろうという決心はつかず、東京に戻りました。しかしこれをきっかけに首都圏で開催されるイベントに料理担当として呼ばれるようになっていきました。 最初は、マイプロ部の同期から、「東京で山形のイベントをやりたいのだけれどシェフがいないから作って」とお願いされたのがきっかけでした。今でも、そこに来ていたお客さんに「良かったね」と言ってもらえたのを覚えています。そこから料理を作る機会が徐々に増えていきました。12月に行われたユアターンサミットでは、赤坂にある山形の郷土料理を扱う「まる」というお店のご主人とコラボする形で、場所を借りながら料理を作ることになりました。

※写真は7月に行われた庄内・鶴岡DAY IN TOKYO また、マイプロ終了後の2018年は、20人ぐらいの規模のイベントを月に一回ペースでやっていましたが、山形の料理だけでなく東北の料理を取り扱うことも増えてきました。そうすると、東京でのイベントであっても、地元の食材を使いたいという気持ちが強くなり、東京での仕入れに限界を感じ、地元のお店に直接出向いて仕入れることでより料理が楽しくなっていきました。

Q.よく保育園をやりながらできましたね。
A.そうですね。ほとんど休みなしでした。でも楽しかったです。

離れていても繋がることのできる関係

Q.様々な所から声がかかり自分の料理が出せる環境になってくると、関東に残りたいという思いが強くなっていったのではありませんか?
A.不思議なことに、東京で様々な人脈ができてくると、「鶴岡に戻ったとしても、いつでもイベントをやりにきていいよ」といわれることが増えていきました。きれいさっぱり東京と離れるのではなく、いつでも行ったり来たりできる安心感が生まれたことで、一度目のUターンの時のような、「自分の居場所が地元だけになる」という思いは消えていました。

私がいなくてももう大丈夫

Q.2度目のUターンを決意させた一番のきっかけは何だったのですか?
A.色々なことがあったのですが、まず、アパートの更新期限が迫っていました(笑)。 3月が更新月だったのでそれまでに決めなければならないと。12月ことのことでした。 でもよく考えてみると、一番のきっかけは、仕事だったのかもしれません。職場で一緒に働いていた調理メンバーの後輩2人の成長を垣間見たときに、「私がいなくても大丈夫」、「ここでできることはもうやり切った」と実感でき、新たな場所でのスタートを決意しました。

Q.帰省する前に、現在の職場の保育園で働かれることは決まっていたのでしょうか。
A.実は決まっていませんでした。12・1月か、3月のどちらかのタイミングで帰ろうと思っていただけなのですが、そんな時に、保育園で人が足りないみたいだよという話が舞い込んできました。でもよくよく聞いてみると、栄養士としての空きはなく、保育の補助という形でした。それで、どうしようかなと悩んでしまいました。
Q.結局どうされたのですか?
A.茨城の保育園で働いていた時に「栄養士と保育士どっちのこともわかっていたら、いろいろなことができるよね」と話していたことを思い出しました。保育の中の事って調理室に入るとなんとなくはわかるのですが、子どもの成長の細かいところまでは、やはり保育士さんに全然かなわないので。そうおもったら、保育の勉強をするのもありかなと。 今は作るほうではなく、保育士の勉強中です。
Q.働いてみての感想は?
A.クッキングが多い保育園なのですが、クッキングは一大イベントというより日常です。クッキングでは、「今日はこれを作るからよろしくね」って任せてもらえたりもします。自分のやりたい料理のこともできる環境なので、保育も調理もどっちもできて楽しいです。

そして、現在の生活

Q.今現在、鶴岡でどのように過ごされていますか。
A.時間の流れはゆっくりですよね。すぐ近くに山や海があるので、休みの日に行けるのはいいですね。この前も山へ散歩に行ってばんけを取ったり、自分の家の畑に残ってる赤かぶを取ってきたりして楽しんでいます。
Q.最後に、今帰省を悩んでいるかたに向けてアドバイスをお願いします。
A.私の場合は、できることをやっていった結果、自分の中での区切りをつけることで、次へ進むことができました。また、鶴岡だけとか都会だけということではなく、両方で活動できるということを選択肢に入れておくだけで、気持ちが楽になると思います。


(インタビュー2019年3月25日 文:草島侑子)

No.38 自分のやりたい仕事が鶴岡にあった。そこから始まった家探し

2017年に鶴岡市に移住した助産師の順子さんとプロのサックス奏者の健一さんご夫妻にお話しを伺いました。

松本健一さん(54)長崎県出身。順子さん(51)酒田市出身。順子さんは高校卒業後に上京。看護師(助産師)として都内の総合病院に勤務。健一さんはプロのサックス奏者。庄内町出身の順子さんのご両親と鶴岡にJターン。

突然始まった仕事と住まい探し

Q.移住を考えたきっかけは何でしょうか?
A.順子さん:東京で勤めていた病院が産科診療をやめることになり転職を考えなくてはならないタイミングで、神奈川に呼び寄せていた父が同居しないと暮らせない状況になり、二世帯で暮らせるところを探さなくてはいけなくなったんです。当初、関東近郊で助産師の仕事を探しましたが、なかなか見つからず、そのうち山梨、新潟と他の地域でも探してみたのですが、考えたら全然知り合いも親戚もいない、住んだこともないところに住むのだろうかと思ってしまって。ちょうど前年に、酒田市にあった実家を完全に処分してしまったので、「すぐに帰ろう」という気持ちはなかったのです。でも移住するなら酒田や余目のある庄内地方にと思っていたのですが、そこには、私の求める仕事がなかったんです。そのときは鶴岡にある病院という選択肢はなかったんですよ(笑)。ところが「山形県」で検索してみたら、鶴岡市にある病院の求人が見つかり「仕事があるのなら行けるかな」って思ったんですよね。そこが鶴岡に移住することになった一番の理由です。仕事はお産を担当しているので、職種的にはやりたいことが見つかったので鶴岡に行こうと思いました。

 

住む場所は子どもの学校探しから

Q.住まい探しはどうしたのでしょうか?
A.順子さん:自分が仕事をするためにも第一優先は、子どもの通学環境と学童保育でした。最初に検討した地域は、新規転入者が何百年ぶりという地域でしたが、住民会長さんにもお会いし大歓迎していただいたのですが、学校が遠かったのです。スクールバス通学の上、学童保育がありませんでした。学校も見学させていただき、先生方にとても親切に説明していただいたのですが決めることができませんでした。鶴岡に二度目の家探しに来たときに、つるおかランド・バンクから櫛引地域の小学校近くの物件の情報をいただいたので見にいきました。敷地には家庭菜園もあり、建物は夫の仕事にも使えそうな感じでいいなと思いました。学校や学童保育も近く、子供と一緒に見学させてもらいました。1学年1クラスという規模は初めてでしたが、見学してみて子どもも大丈夫そうだったので、この物件に決めることにしました。これで仕事が決まり、住む場所、子供の学校も決まったわけです。

(写真提供:松本さん)

参考にした先輩移住者のリノベーション

健一さん:住まいを決めました訳ですが、すぐに住める物件ではなくリフォームしなくてはいけない物件だったので、次に先輩移住者の佐久間麻都香さんを移住コーディネーターに紹介してもらいました。佐久間さんは、空き家をリフォームして暮らしていたので(インタビューリンク)、実際にその住まいを見せてもらいました。知らない土地に来て、いきなりどこの工務店さんに聞けば良いかも知らないと、それだけで訳がわからななくなり疲弊してしまうので、先輩移住者の声を聞けて良かったです。空き家活用や再生エネルギ―活用補助金を使うことができ、憧れの薪ストーブもいれました。工務店の方と相談しながらやるのがお勧めです。

どんどん広がった楽しい繋がり

Q.実際に暮らしてみての感想を教えてください。
A.健一さん:何度か冬に車で羽黒山にスキーで来ていたので、冬の暮らしの想像はできたのですが、その時の印象と今では全く違いました。人が住んでないようなところだと思っていましたから。暮らしてみないとわからないことがほとんどです。最初の印象は幻想でした。住んでみると良いところも悪いところも、思っていたのと全然違うのです。鶴岡には、面白い人がいっぱいいますね。先輩ミュージシャンで鶴岡出身の磯見博さんが地元の音楽事情に詳しい蕎麦屋さんを紹介してくれて、その蕎麦屋さんがさらにいろんな人を紹介してくれたんです。そこに行くとだんだん芋づる式に次から次へと面白い人がやって来るんです。また、薪ストーブをつけてくれた業者さんの紹介で薪サークルを紹介してもらいました。そのサークルは、10家族くらいで皆さん自宅に薪ストーブがある方たちなのですが、薪についての情報交換などができ助かっています。

地元の人の暮らしの当たり前がはじめはわからない。

Q.暮らしてみて感じたことがあれば教えてください。
A.健一さん:神奈川に住んでいたときと大きな違いを感じたのは、町内会費の金額です。それに消防団、神社の氏子など色々加算されます。でも、公民館で集まりがあるとお酒が飲めるのです(笑)。

順子さん:「ドブさらいをするので、スコップを持ってきてください」って言われた時に、ドブさらいには下が平らになっているスコップを使うということを知らなかったんです。神社に来てくれと言われ、行ってみたら皆正装していて、お祭りの最初にあるお祓いだったみたいで、入るタイミングがわからなかったり、お葬式のしきたりもよくわからなくて、地域の人たちは、私たたちが何に困っているのかもわかんない感じでした。

(写真提供:松本さん)

子供に対する温かいまなざし

健一さん:二人の娘たちが順番に里帰り出産で来ていて、孫の面倒をみたりしました。保育園や幼稚園に通って泥んこになって遊んでいました。すごくいいですよ。

順子さん:子供に対する視線がぜんぜん違いますね。ヨソから来た人は皆言います。例えば都内で地下鉄に乗っていると、子供が騒いだりするのはもってのほかですけど、機嫌よく鼻歌うたったりするじゃないですか。それだけで、隣の乗客に舌打ちされたりそういう雰囲気なんですよ。ベビーカーを持って電車に乗ることとかいろいろ論議を醸していましたけど、子育てしているお母さんたちは、小さくなって子育てをしていると思います。鶴岡は子供に対するまなざしが温かく空気感も全然違うので、子育てするんだったらいいと思います。

移住を考えている人へ

順子さん:仕事に関しては、あまり強く勧められないとういうところはあるかな。有効求人倍率が2倍はあるらしいのだけど、なかなかうまくつながらないんです。私の場合は、自分の望む職種にぴったりはまったから、満足度が高かったのですが。夫に関しては、ここで仕事がないようだったら、向こうに戻るしかないねという感じでした。まだ川崎に家があり、上の子が一人で住んでいるので。でも私は、転職が初めてじゃなかったので、転職すると給料が下がるというのはわかっていたし、地方に行くならさらに覚悟をしていたので、「えー」とは思わなかったですね。

健一さん:本当に「仕事」をするんだったら東京に行かないとしょうがないっていうところはあるんですけど。でも、こちらで1年半くらいやってみて、じゃあ「東京で意味のある何かできるのか」がわかんなくなっちゃうんですよ。もちろん東京に行けば素晴らしいミュージシャンと一緒に仕事ができます。こちらでは、ほとんどアマチュアの人たちと一緒に何かやるんですが、そちらの方が楽しくなっちゃって。仕事の演奏にはならないけれど、私の場合は特殊な仕事なのであまり参考にならないと思います。

音楽を通して、地域に人を呼び込みたい

順子さん:夫は高校卒業まで、雪の降らない長崎県諫早市で過ごしているのに、鶴岡の四季の中で一番好きなのが冬っていうんですよ。
健一さん:冬いいですよ!雪がいよいよ消えて春になると、あぁ寂しいって思うんです。長崎では、まず雪降らなくて、僕が子供の時に一度10cmくらい積もったのかな。それが大騒ぎになり学校が休みになったんです。

健一さん:酒田の人に「鶴岡はジャズが盛んなところですね」ってよく言われるのですが、いろいろな場所で、ジャズライブを開催してみたいと思っています。実は、移住してすぐに地域の公民館でやったんです。板張りのところにドラムセットを置いて、観客は畳敷きのところで、おばあちゃんたがイスに座ったり、皆思い思いの格好で聞いていましたね。加茂水族館のクラゲの大水槽前とか丙申堂でとか、育苗ハウスとか今までやったことのない場所でやれるのが楽しいです。音楽を通して、地域に人を呼び込んだり何かやってみたいですね。ちょうどいいい場所にはまった感じがしています。

 

(2018年9月28日 インタビュー実施)

 

No.37 幼い頃から大好きだったこの場所に「人」を呼び込みたい。

加藤博紀・あさ野さんご夫妻は2018年4月、鶴岡市羽黒に移住し、【羽黒・芸術の森】にレストラン「oven Kato(オーブンカトウ)」をオープンしました。東京・吉祥寺で10年間飲食店を営んでいたお二人がどのような経緯で移住に至ったのかお話を伺いました。

 

【羽黒・芸術の森】

単なる美術館ではなく、アーティストや地域の人々が気軽に集える「拠点」にという構想のもと、敷地全体を「羽黒・芸術の森」と命名。美術収蔵館を「今井アートギャラリー」、旧アトリエを「工房いずみ」の庭を「羽黒の小さな森」と分け、2016年春にリニューアルオープン。

―叔母の葛藤、孫たちの葛藤

あさ野さん―祖父が地元を代表する画家(今井繁三郎)だったこともあり、羽黒に祖父の作品を展示する美術収蔵館やアトリエがありました。祖父には4人の娘がいて、末の娘である齋藤木草を除き、皆東京で暮らしていました。私たち孫は総勢13人いて、東京でもよく会っていたのですが、夏休みなどに、ここ羽黒に集まることを楽しみにしていました。滞在時は、この敷地内を走り回ったり、皆で一列に座ってトウモロコシを食べたりした記憶があります。皆羽黒が好きだったので、学校の行事や部活動が忙しくなっても、それぞれのタイミングで遊びに来ていましたし、いつ来てもよい場所としてずっとあるものだと私たちは思っていました。しかし、祖父が2002年に亡くなり唯一地元に残っていた叔母家族だけの維持管理が困難な状況になってしまって。2014年に美術収蔵館の一時休館を決めました。

あさ野さん―休館して暫くしてから孫世代が集まって、今後のことについて話し合いの場を持つことになりました。叔母の近くでその大変さをずっと見ていたいとこ達からは「このまま閉館した方がいい」という意見も出ました。資金面でのこと、いとこ達もそれぞれの暮らしで手一杯であったこともあり、遠くにいる私たちがそんなに簡単に続けたいとは言えませんでしたが、話し合いの中で、私の姉が「今井繁三郎」は私たちのおじいちゃんだけではなく「公の人である」と考えなくてはいけないのでは」と言ったのです。その言葉で、いとこ達の気持ちが「続けよう」と動いたのだと思います。そして最終的に、叔母の長男である健太郎(現在の羽黒芸術の森の代表)が「続けたい」と言ってくれて。私も皆が集まるこの場所を残したいと思っていたので、その為に何かしなければと強く感じました。

―皆に「行ってきます」って報告をしてから行きたかった

 あさ野さん―そこで、「いとこ会」と称して、東京でも何度もいとこ達と集まり美術館を訪れてくれる人を増やす方法を考えていた時に、生前の祖父の言葉を思い出したのです。「食があれば、ここに人が来てくれる」と。「食」の仕事をしていたのは私しかいなかったのですが、考えれば考えるほど「私がやるしかない!」という気持ちが強くなってきて。もちろん、夫からゴーサインをもらえたらの話だったのですが(笑)。私も夫も吉祥寺の街が大好きでしたし、都外で暮らした経験のある私と違って夫はずっと東京で暮らしていましたから。

博紀さん―吉祥寺のうちの店で、「いとこ会」をしている姿を見ていたので「そのうち言い出すだろう」と静かに見守っていました。妻が言い出したら止められないとも思っていたので(笑)。なので、移住・移転するとなったら、自分たちの準備だけではなく、今までお世話になったお客さまに対しての対応など考えると、準備の為の期間が2年必要だろうと冷静に捉えていました。

あさ野さん-皆に「いってらっしゃい」って言ってもらいたかったし、皆に「行ってきます」って報告をしてから行きたかったので。なるべく本当に良い形で動きたいと思いました。吉祥寺のお店があった場所は、特に親子3代同じ小学校中学校出ていますという地域だったのです。もう親世代も知り合いだし、子供たちはみんな同級生や先輩、後輩であったりする訳です。そんな場所でずっと飲食に関わってきたので、いろんなことを簡単に放り出したくなかったんです。「移ります」って言えたのは移転をする1年前位かな。お店をオープンしてちょうど9年でした。心のお守りというか「吉祥寺で10年やりましたっ」と言って店を移したかったのです。そうでないと踏ん切りがつかなかったというのもあるし、ちょうどギャラリーの方もそれ以上おいたら多分修繕が追いつかなくなるだろうなというギリギリのタイミングだったんです。

博紀さん―このままずっと吉祥寺で店を続けても、東京しか知らないで一生を終えてしまうのはもったいないとも思いました。そういう気持ちがぼんやりとあったんですよ。東京以外のところを知るチャンスだと考え、それもまたいいなって。飲食業って基本的に転勤がないので、なんとなく憧れていた転勤を経験できるのかなって前向きに考えて、2年かけてゆっくりと準備を進めることができました。

―生活を楽しむという発想

Q.移住するにあたって大変だったことを教えてください。

A.引っ越しに伴い、吉祥寺の店を1月に閉めたんですよ。一か月で片付けて3月のオンシーズンの前に引っ越そうと思っていたのですが、なんと羽黒は雪で引っ越しできるわけないでしょって言われて(笑)。結局4月に引っ越したのでその間の活費等が結構削られましたね。しかも今回は生活用の引っ越しと、お店用の引っ越しもあったので結構大変でした。加えて、大変なのは祖父が暮らしていた家がボロボロなのに修繕にかけられるお金が限られているし、予算の許せる範囲で直すのは大変でしたけど、それでも面白かったというのが正直な感想です。基本的には、自分たちでやるという選択肢しかなく、床を剥がしたり、カーペット敷いたり壁も自分たちで全て塗り直しました。東京にいた頃はDIYをしたことがほとんどなかったので、こちらにきてだいぶスキルが上がりましたね。ここだったら壁も自由に自分の好きな色にしたり、ビスを打ち込んだり何でもやりたい放題にできたので、大変でしたが楽しい毎日でしたね。

 Q.生活を始めてからのご苦労があれば教えてください

A.こちらに来たのが4月でまだ寒かったのですが、ずっと空き家だったせいもあり湿気が酷くて、洗濯物を干すと脱水をかけたのにどんどん湿気で重くなってくるみたいな感じでした。箱に入れたまま積んでおいた洋服や靴や全部カビてしまったり。

その時はさすがにやっちゃったなあと凹みました。やはり人が住んでいるのと住んでないのとはこういうことなんだなって実感しましたね。もちろんそれは空き家だったからなので、今は随分良くなりました。

―季節で仕事を変えるという暮らし方

 Q.oven Kato(オーブンカトウ)をはじめてからの暮らし方を教えてください

A.営業期間は4月中旬~11月下旬に設定しています。レストランは冬も休まずできたらいいなと思っていたんですが、鶴岡に来てみると、冬の間は特に外食率が下がる様に感じました。店やギャラリーがある場所は200mほど農道を入った先にあるので、雪が降ると車が入って来られなくなってしまうのです。琴平荘の様に冬だけラーメン屋さんにするとか、そういうアイディアがあってニーズを見つけ生み出していかないと難しいなと感じました。だから季節で仕事を変える生き方や生活もありなんだなぁと思い、冬は店を閉めてどこかで働きに出ようかなと。灯油を運ぶ仕事が冬にあるとも聞いていたので、危険物取り扱いの免許を取っておこうと思い秋ぐらいに勉強し、11月には免許を取れたのですが、その頃には既に冬の仕事の契約が終わっていたんです(笑)。そんな時、知り合いから近所の造り酒屋さんで一番番苦労したのはやっぱり庄内弁で(笑)、酒蔵でも「んだの」という意味の「イエス」「んでね」という意味の「ノー」の違いすら分からず、未だに1回では聞きとれない事も多いです。庄内弁をマスターするのは、雪道運転以上険しい道のりかもしれません(笑)。

―気軽に皆が訪れる場所に

Q.今後やっていきたいことがあれば教えてください。

A.あさ野さん-祖父母に会いに行くと同時に、この場所に来ることが大好きだったのです。少しでも長く居てもらう仕組みを考えているところです。自分たちがここで遊んだように、沢山の人がここに集い、思い思いに過ごしてもらえる様になるといいなと思っています。

「羽黒芸術の森」という複合施設の中で、美術館で絵を楽しむ、レストランで食を楽しむ。じゃぁ森の楽しみ方をどう突き詰めていこうかということを、皆でいろいろ考えて、遊歩道作ったり、ハンモックで遊んだりできるようにしたり。ここのは元々なかったアカマツとか、ヒマラヤ杉もあるんですよ。この庭の木は開墾した時に祖父が植えた木もたくさんあるので、木の名前が分かると庭を歩く楽しみも増えるのではと。そして子供たちには、木にのぼったり庭をかけまわったり思いっきり遊んで欲しいですね。私たちが子供の頃に学んだ様に「危機察知能力」を身につける場であり続けたいと思います。

(文:草島侑子)

 

No.36「鶴岡で和紙づくり」時代とおもに変化し、生きていく

 

今回のインタビューは、2017年に岐阜県からUターン、現在上郷地区で和紙工房を営んでいる長谷川聡さん(56歳)にお話しを伺いました。

(インタビューを受ける長谷川さん)

長谷川聡さん。鶴岡市出身。高校卒業後は金沢の大学へ進学。その後和紙づくりに興味を持ち、伝統的な美濃和紙工法を学ぶ。2017年にUターンし、上郷地区で「長谷川和紙工房」を営む。

―これからの働き方

Q.元々、鶴岡に戻る予定だったのでしょうか。

A.私が大学に在学していた頃は、日本経済が右肩上がりで、アメリカよりも日本の土地の価値の方が高くなっていた時代でした。しかしこんな状況はずっとは続かないだろうと若いなりに心配していました。そこで、企業の中で働くのではなく、自給自足の面の強い農業をやろうと考え、いずれ鶴岡に戻るつもりでいました。しかし、現実問題として農業だけではやっていけないと感じていたので、うまく組み合わせられるものはないかと見て回っていた時に、農閑期に組み合わせてやれる和紙づくりと出会いました。

 

写真提供:長谷川さん(左:川ざらしを終えた楮(こうぞ)を運ぶ 右:工房前の積雪を掃いて紙干しの準備)

Q.その当時、和紙づくりというのは全国的に盛んだったのでしょうか。

A.和紙づくりというのは、本当は大事な仕事だと思うのですが、その当時の社会的な評価は低く、担い手も少ない状況にありました。生産性も低かったので、バブル時代においては衰退産業のように思われながらも、何とか日本経済に引っ張られてきたように思います。全国的に見ても、高齢化と若い後継者の不足が続いている状況が進んでいました。 

(左:和紙の原料となる楮(こうぞ)とトロアオイ 右:柔らかく煮た楮(こうぞ))

 ―和紙づくりを続けていくために考えたこと、行動したこと

Q.和紙づくりはどこで学ばれたのですか。

A.大学在学中に各地の和紙産地を訪ね、和紙の現状を見て回りました。卒業後は、金沢にある和紙工房で、生計を維持するために始めた学習塾の講師と掛け持ちしながら和紙の勉強していきました。その後、1991年、26歳のときに、岐阜県にある本美濃紙保存会の会長である古田行三さんに伝統的な美濃紙工法を学ぶ機会を得て、岐阜に移り住みました。

(紙漉きの準備、原料を混ぜ合わせる)

Q.岐阜での和紙づくりは、金沢での生活と違っていましたか。

A.金沢の工房では農業と和紙づくりが同時に行われていたので、岐阜でも同じように行っているものと思っていました。ところが自分が岐阜で仕事を始めたころには、二足のわらじでできるような仕事ではないと感じました。紙を漉(す)くという作業は、一見すれば単純労働に見えますが、できればそのことだけに集中できた方がいい仕事です。また、和紙づくりは、様々な人が関わっていて、皆がその役割を果たさないとできないのです。だから、新しい担い手が増えていかないと、関連する仕事をする方々が仕事を継続できなくなるので、和紙づくりが回っていきません。正直いって、農業との兼業を考えている場合ではないなと。師事して3年目に古田さんが他界してしまい、早くも自分で独立して起業せざるをえない状況になったことも大きいのですが、和紙の仕事に関わる比重が高くなり、忙しくなってからは岐阜に来てからも続けていた学習塾の副業も辞めて和紙の仕事を専業にしていました。この頃は、もう鶴岡にUターンして農業と組み合わせて和紙づくりをするといった意識はなくなっていました。目の前のことだけで精一杯でしたので。

(紙漉きの作業)

Q.和紙業界の事務局もされていたと伺ったのですが。

A.はい、本当は自分の仕事だけをしていたかったのですが、そういった活動もしていかないと、結局は、和紙業界自体が小さくなってしまっていましたから。私が岐阜に行った頃は10年後の存続も危惧されていて、若い世代の担い手もいませんでした。岐阜の産地は危機的に見られていたんです。今とまるっきり反対ですけどね(笑)。そこに若者が集まって来るようになってきたのは、岐阜県美濃市が後継者養成のための助成金、奨学金の制度を作ったことが大きいと思います。制度ができたからこそ、外部からの研修生を引き受ける仕組みも整備されていき、それから少しずつではありますが、紙漉きをやりに来るとか、職人希望の人も出てきて、今では県外からの移住者も含めて、20代から40代位の十数人の研修生が学んでいる状況になっています。

 ―新たな挑戦。産地以外での和紙づくり

Q.Uターンを決めたきっかけを教えてください。

A.ちょうど和紙がユネスコの無形文化遺産に登録されて本美濃紙もその一つとして登録されました。それにより広く周知され、若い研修生への支援も補助金などで拡充できました。私は組合の副理事長を十数年も勤めていましたが、行政や若い組合員らとの間で、今後の事業の進め方などについて意見の異なることが少しずつ多くなりました。私が調整しながら進めるだけでは結果的に必ずしも良い効果を生まないのではと思うようにもなったのです。また、補助金などの支援を受けて伝統技術の保存伝承に注力するだけでいいのか、注目を集める産地とそうでない産地の格差ができることが、和紙業界全体でみたときにこれでいいのかと思ったのです。現在の東北は残念ながら生産者も減ってしまい和紙の後進地域で、山形県内には4か所しかなく、庄内ではここだけです。でも和紙職人のように地道なことをコツコツやることは、東北人に向いていると思うのです。和紙づくりの歴史的背景がない地域でも和紙はできる。今までの「伝統のある産地でなければできない和紙」とは違った捉え方でできる和紙づくりを自分でやってみようと思ったのがUターンを考えたきっかけです。

写真提供:長谷川さん(天日干し)

―自分のアイデンティティ

Q.Uターンしてからの生活はどうでしょうか?

A.岐阜との違いは雪が多いことですね。自分が生まれ育った土地ではあるのですが、高校生の頃と、社会人になってからでは見え方が違いますね。また、お盆と正月などには帰省していたのですが、30年以上も経っているので以前との違いにも驚いています。以前、海外でハーフの方と話す機会があったのですが、「自分の国籍がどちらなのか、自分がどちらの民族に属しているのか、時々わからなくなる」と言っていたのを思い出しました。まさにそんな感じですね。自分が山形県人なのか岐阜県人なのか。ふと戻ってきて、どこかよそ者っぽい感じはしますけど、だからといって不都合があるわけではないのですが(笑)。今は地域の方と草刈りとか様々な活動を一緒にしています。

写真提供:長谷川さん(紙の選別)

―どこでもできる和紙づくり

Q.今後やっていきたいことがあれば教えてください。

A.チャレンジという点では、4つあります。

1つ目は、和紙の原材料である楮(こうぞ)という木の皮について、茨城県大子町が主産地でいつもそこから取り寄せていたのですが、今後は地元でも栽培できないかと思っています。

2つ目は、場所を問わない和紙づくりです。伝統工芸の産地でやることは、伝統の産業だとか、地域の昔からの文化だからというスタンスになりますが、そうじゃなくてもいいと思っています。「どこでもできる和紙づくり」。田舎でも、都会のマンションの一室でも和紙づくり教室みたいなものがあれば、和紙ってもっと身近になると感じています。

3つ目は、和紙の世界では環境対策が遅れています。排水処理施設を導入するような考えは進んでいないので、環境面からの設備投資として、県のよろず相談に相談して補助金をもらいながら試作機を作りました。まだ完全に導入できていなくてコスト計算ができずにストップしていますが。何か今後の対策に役立てばと考えています。

4つ目は、和紙に限らず、人間は自然素材に触れる体験欲求みたいなものがあると思うのですが、そういった体験を多くの人に知ってもらいたいと思います。以前、アメリカで紙漉きのワークショップに参加した時は、40~50人の列ができ、最終的に200人ぐらいの人が紙漉きのはがきを喜んで持って帰りました。こういった体験があったからこそ、「寿司」が和食を通り越して「Sushi」という世界的な概念になっているように、海外の人が「Washi!」と言って喜んでくれる時代にしていきたいなと思います。

(現在の工房の裏に自生する楮(こうぞ))

―伝統文化を保存しつつも、新たなものも取り入れていく

Q.職人としてUIターンを検討しているかたへアドバイスをお願いします。

A.これからは、伝統文化を保存しつつも、同時に新たなものを取り入れていく時代だと思います。古いものだけではなく、新しいものが出来上がっていけば、鶴岡に縁のない人でもそのモノに関心を持って来てくれますし、人を呼び込むには様々な方法があるはずです。例えば鶴岡は、ユネスコ食文化創造都市のイメージが強いと思うのですが、食だけでなく食にまつわるいろんなことがあってもいいと思います。食とシルク産業やしな織などの工芸品を組み合わせてもいいと思います。和紙が必要ということであれば、私も協力したいと思います。自分たちの活動の成果を広げていくことがとても大事だと思います。鶴岡からの情報発信が十分でないと感じることも多いのですが、若い人で本気でやってみたい人がいれば、積極的に情報をキャッチして来てもらいたいですね。

(しな織りに使う繊維を漉き込んだ紙(試作品))

(インタビュー文:草島侑子)

 

No.35 ピラティスをこの地に広めていきたい!好きなことを続けながら叶えた鶴岡へのJターン移住

地方に移住を考えたときに、自分の希望する仕事が見つからないこともしばしば。今回は、ご自身の経験と資格を活かして、県内唯一のマンツーマンでピラティスができる施設でピラティストレーナーとして活動しているという安城さんにお話を伺いました。

安城久美さん。三人姉妹の次女として山形市に生まれ、高校卒業後は会社員として就職。その間に興味を持ったエアロビクスとピラティスの指導者として東京で活動を始める。2019年3月に鶴岡市へ移り住み、現在は、市内の医療法人にてピラティストレーナーとして、マンツーマンやグループレッスンを行う。

―ピラティスとの出会い

Q.いつからピラティスの指導者として活動されていたのですか?

A.高校卒業後は会社員として働いていましたが、その当時スポーツジムに通ったのをきっかけに、エアロビクスに興味を持ちました。仙台市でエアロビクス指導者の資格を取得。その後、東京にてフリーランス・エアロビクスインストラクターとして活動を始めました。そんな中、膝や腰にケガを負うことが多くなり、ケガの予防としてできる運動は何かないかと探して見つけたのがピラティスでした。

当時はヨガがブームで、ピラティスはまだ日本に上陸したばかりで、世間的には浸透していませんでした。ピラティスには、ヨガのような何かのポーズや、エアロビクスのように決まった順序の動きがあるわけでないのですが、その人の体のつくりに合わせたフォームで、一人一人の骨格の動きに合わせて体を動かしていくので、無理なく運動ができるのが特徴です。

(その人の骨格を見て、体の使われてない筋肉を動かしていくピラティス)

―働き方への違和感

Q.地方での暮らしを考えたきっかけは何でしょうか?

A.エアロビクスのインストラクターからピラティストレーナーになり、経験もたくさん積みましたが、その働き方に違和感を感じながら過ごしていた頃、お世話になっている方に東京以外での働き方を勧められ、首都圏ではなく地方で暮らすことを選択肢の一つとして考えるようになりました。

地方での仕事を探す中、以前から憧れていた「グランドアテンダント」の募集があるのを知り、その企業が参加する鶴岡市主催の地元就活応援セミナー(鶴岡市の友好都市である東京都江戸川区で開催)に行ったみることにしました。私は山形市出身だったのですが、鶴岡市の移住コーディネーターの俵谷さんが仕事・住まい・地域の情報など丁寧に教えてくれました。結果的にグランドアテンダントの仕事には就かなかったのですが、移住コーディネーターとの出会いをきっかけに、少しずつ鶴岡に興味を持つようになりました。

(鶴岡地元就職応援セミナーで移住コーディネーターと)

-県内唯一、ピラティススタジオを運営するクリニックとの出会い

Q.移住を決めた理由はなんでしょうか。

A.江戸川区での地元就職応援セミナーの後、山形県内でピラティスができる場所はないかなと調べてみました。すると鶴岡市にあるクリニックで行われていることを知りました。さっそく移住コーディネーターに相談をしてみると、鶴岡市の仕事体感ツアーを勧められ、直接企業訪問することになったのです。クリニックでは、ちょうど新規事業としてピラティスをはじめる準備をしようとしていたことも幸運でした。

(クリニック屋上からの月山)

山形県出身とはいえ、大人になってからは鶴岡へ行ったことがなかったのですが、月山や鳥海山など山々の素晴らしい景色、昔ながらの瓦屋根の多い古民家などに感動を覚えました。そして仕事だけでなく、住居についてもすぐに話がまとまり、「こんなにポンポン話が進んでいくのはきっと何かの巡り合わせだ」と感じ、移住を決めました。

(引っ越ししてきた当初に自転車で見に行った鶴岡公園の満開の桜)

-まずは現地へ来てほしい

Q.移住を考えている人にアドバイスがあれば教えてください。

A.私もそうでしたが、行ったことのない場所だと、土地勘もなく地名を聞いてもそこまでたどりつけなかったり、ましてそこでの暮らしなんて想像もつきません。まずは、季節の良いときに行ってみることをお勧めします。それから、車はあった方が断然便利です。はじめは自転車だけでしたがやはり車が必要だと思い購入しました。また、移住して間もないときは知り合いも少ないため、周囲の方に話かけたり、地域のイベントに参加していくと良いと思います。私の場合、転入先に知り合いがいた訳でもなかったので、春と秋に鶴岡市主催の移住者交流会に参加してみました。春は日本遺産にも指定されている羽黒地域の歴史文化を学んだり、移住してきたばかりの人たちと情報交換をすることができました。

(移住者交流会でピラティスの紹介をする安城さん)

また秋の交流会では冬道運転講習会も含まれていたので、車を購入し間もなかった私にとっては、得るものが多かったです。

鶴岡は地域性なのか、なかなか自分をすぐに出さないシャイな方も多いので、自分から進んで話しかけたり情報をとりに行くなど積極的に動いてみると、きっと素敵なご縁を運んできてくれると思います。

-地域のおばあちゃんが日常会話で「ピラティス」という言葉が出てくる運動に

Q.これから何かしたいことがあれば聞かせてください。

Aヨガやエアロビクスのように頑張って体を動かさなくても、体はもっと自然に動くというのが「ピラティス」です。ケガで苦しむ方にもピラティスという運動があることを伝えたい。今はそう思って活動を続けています。県内でもまだまだピラティスの認知度は低いので、もっと老若男女問わず知ってもらうことで、ゆくゆくは農作業をしているようなおばあちゃんが「今日ピラティスやってきたんだ」と自然と会話に出てくるようなレベルまで浸透していったら良いなと思っています。

(今野俊幸医院長(中央)、今野陽介先生(左)と一緒に)

文:伊藤秀和