お知らせ

鶴岡市「宝谷地区地域おこし協力隊」隊員の募集について(3月23日必着)

鶴岡市「宝谷地区地域おこし協力隊」の隊員を募集します!!

活動地域である宝谷地区は、櫛引地域の東南、庄内平野を一望できる標高約270mに位置する中山間地域で、農業体験学習施設「ふるさとむら宝谷」を拠点に、そば打ち体験やそばの提供、自然散策など自然の豊かさに親しむグリーンツーリズムに取組んできましたが、人口の流出に伴う後継者不足など、対応しなければならない喫緊の課題が顕在化しています。

そのため、地域とともに地域づくり活動に取り組む人材として、都市部の意欲ある若者を積極的に受け入れ、これまで宝谷のために頑張ってきた元気な高齢者世代と若者の視点や発想を結びつけることで、新たな地域活性化の起爆剤とするため、次のとおり、「地域おこし協力隊」を募集します。

 

募集期間:平成30年2月23日(金)〜3月23日(金)必着

※正式な採用決定は、新年度予算成立後に通知いたします。

詳しくはこちらをご覧ください!

 

 

No.25 まずは住んでいる人が、より暮らしやすく楽しい地域にすること

『前略つるおかに住みマス。』の移住者インタビューでは移住者が地域で関わっている人たちも紹介しています。地域の受け入れ側としてのお話しを、五十嵐正直さん(68歳)にお伺いしました。五十嵐さんは鶴岡市木野俣生まれ、現在、木野俣自治会の会長を務めています。

(写真1. 五十嵐正直さん)

温海地域の国道345号線沿いに位置する木野俣集落は、現在50世帯150人が暮らしていますが、今年生まれた子供はゼロ、去年生まれた子は1人、30代以下の若者は7~8人しかいないという人口減少に悩む地域の一つです。

平成22年に「木野俣自治会いきいき隊」を組織して、その青年部で山形大学の先生の指導のもと、一緒に村を歩きながら「地域の宝探し」を行いました。年中行事や川の雑魚、蕗の砂糖煮など地域にある食べ物、地域に残る昔話など、1年間村の中を探し回り「地元学」の勉強会を行い、平成23年の春に「わらび採り」「笹巻づくり」、秋には「温海かぶ漬け込み体験」などや昔の食の再現事業を実施し、「木野俣一本ママ感謝祭」を行うなど、精力的に地域の活性化に取り組んできました。

(写真2.  木野俣獅子踊 昭和47年鶴岡市指定無形民俗文化財)

五十嵐さん:「地域の宝さがし」の一番の成果は、普段生活していて何とも思っていなかった物が、知らない人、特に若い人には宝物に見えるとわかったことです。冬の薪を積んだ玄関や薪割りの風景、それに夏の蛍がいっぱい飛ぶ風景や夜の星の美しさなど、我々にとって日常にあるものが宝物になる。そしてそれは、思ったより沢山あるということに気付いたんです。

五十嵐さん:人口減少はもうやむをえない。それを止めようと無理なことをするのではなく、今住んでいる人が、より暮らしやすく、楽しくなることにもっと目を向けたらどうかと改めてわかったんです。実際、村の過疎は止まらないし、住んでいる人は村の良さになかなか気づかない。だからそのことに気づくために何かをしていかなければいけないと思いました。そこで「村の宝探し」をやってみて、それを受けて次年度これからどういう村にしていくか、住みにくい点は何か、これからどういう地域にしていくのかという地域の将来について掘り下げてみる「集落ビジョン」の策定を市と一緒にやることにしました。

(写真3. 温海かぶ)

五十嵐さん:このままでは子供たちに「地域に残れ」と言えなかったんです。何回も皆で集まり話し合いをし、平成24~26年の3年間は年間50万円の鶴岡市過疎地域集落対策事業の補助金を受けて、視察へ行き、村の水路の整備をしました。最終年度は将来の投資になるようなことをやってみようということで、なめこの菌を原木へ注入したり、かぶを洗う専用の機械を買いました。ちょうどその3年後に、福栄地区(※)に地域おこし協力隊が入ってきたという訳です。(※福栄地区は、菅野代、温海川、木野俣、越沢、関川の5集落からなる)

(写真4. なめこの菌打ちの様子)

地域おこし協力隊が来るまでは、全然知らない人がヨソから入って来て何かするという感覚はなかったのでしょうか?

五十嵐さん:なかったです。制度を知って、地元の皆は「すぐ受けよう!」ということになりました。地域おこし協力隊には、先に作った「集落ビジョン策定」に沿ってやってもらおうと。これがあったから、来てもらってすぐ動いてもらえたという訳です。例えば地域おこし協力隊の石井くんは、グリーンツーリズムや、わらびなどの山菜やかぶの収穫体験、なめこ作りなど、「集落ビジョン策定」に沿った仕事があったので、すぐに取り掛かることができました。

(写真5.  赤こごみの天日干しの様子)

地域おこし協力隊の受け皿ができていたということでしょうか?

五十嵐さん:福祉関係でも、あの頃から介護が大変だとか、一人暮らしのお年寄りをどうするかとか、診療所が欲しいという声が地域にあり、協力隊が入ってきたその年から、そういう要望についても取り組んでもらえました。これは、地域の全員が集まって、話し合ったから課題が見えてきていて、そこに地域おこし協力隊が来たからやってもらうことが出来たんだと思います。

(写真6. 採ってきたわらびの出荷の準備)

地域おこし協力隊が来てからと来る前とでは、地域の人の意識は変わりましたか?

 五十嵐さん:がらりと変わりました。「こうやったらいいだろうな」という、希望がでてきました。今までは、「誰がやるんだ?」と言い、自分からやる人はなかなかいなかったんです。でも協力隊が来てからは、グリーンツーリズムをやったり、かぶの体験させたり、わらびを収穫して塩蔵して販売したり、診療所の先生に来てもらったり、個人ではなかなかできなかったことが現実的なものになりました。平成23年に作った「地域ビジョン」の具体化を協力隊が後押ししてくれたんです。

 五十嵐さん:秋なればジョロ(カメムシ)は沢山でるし、冬は雪は多いし、「よくこんなところに来てくれた」と皆言いますが、ここが良くて来てくれる人もいるんだということになれば、地域の自信にもなる訳です。

(写真7. 地域おこし協力隊の二人と五十嵐さん)

地域起こし協力隊の人に対してヨソ者って意識はありますか?協力隊との関係は、とてもいい感じのようですが。

五十嵐さん:今はもう地元の人以上に地元の人です(笑)。彼らの人柄もあるけれど、石井くんの場合は、春先にわらび採りに来てくれたことで、顔も人柄もわかり、地域に慣れていった。亀森くんの場合は、買い物ツアーに一緒に行ったり、診療所の手伝いをしてもらったり、福祉関係で歩いているうちに顔が広がりました。協力隊との関係はとてもいい関係でいると思います。ただ今年度で任期が終わりで、これからも残ってもらいたいと思っているんですが、どのように生活をしていくのかが非常に難しいところです。住まいだけ木野俣で、鶴岡の会社に通勤するなら面白くないし、ここで地域の人と関わりながら仕事、生業を作っていけるのが一番いいが、それには、集落のどこかの家の婿になれば一番いいのだが(笑)。

 

(写真8. 温海かぶの焼き畑の様子)

今この土地で暮らす人たちはどんな職業の人たちですか?

五十嵐さん:専業農家の人はほとんどいない。勤め人や職人です。以前であれば、ここに住む意味っていうのがあった。例えば、米をつくったり、杉を育てたり、山の手入れをしたり、山菜を育てたり、薪や炭を出荷したりすることで、ここに住んでいるという意味があったんです。しかし、今はここに住まなければならないものがない。つまり現金収入を求めてどこかに勤めるとか、鶴岡の会社に行くとか。職人で大工になった人は仕事であちこち行くけれど、そうすると、最初のうちはここから通ったりするけども、冬になると雪で通勤が大変になるから、職場の近くに住むことになり、転出してしまう。若い人たちが出て行って、じいさんばあさんだけになり、畑仕事や趣味の仕事をしています。それもどちらかが亡くなると、ここに一人でいる意味もなくなっていく訳です。

五十嵐さん:だから今、ここに住まなければならないということを、この中で見出そうとしているます。つまりここにいることが楽しいと、ここでの暮らしに生きがいを見つけることです。利便性を求めるのでは、こういう山の中は不適切で、それを求めない極少数の人が楽しむ方法はないのかと。UターンIターン含めて、自然が好きであくせくしないで、時間もゆっくり流れて、天気が悪ければ休むし、天気が良ければ働くとか、そういうようなことを求めるような人だといいんでないでしょうか。

 

 

(写真9. 木野俣地区の山あいの様子)

これから地域でどういったことに取り組みたいですか。またどんな課題がありますか。

五十嵐さん:一人暮らしの安否確認ができるように、隣近所や新聞配達の人に、なんか変わったようなことあったら教えてと声かけを願いしているのですが、一番いいのは集落センターに集まってもらって、いちいち確認しに行かなくても、「あの人来ないけど、大丈夫かな」と、そういう話題になって、ここで安否確認できれば一番いいと考えています。

(写真10. 集落センターで行う「しな織りの糸つむぎ」の仕事)

 

五十嵐さん:少し大げさに言うと、村の中に「婆ぁ会社」を作ろうとしています。しな織の糸つむぎ(しな積み)を月2~3回やってみたら、藁細工もやってくれと外部からお願いされんたんです。そこで他にも、お年寄りにできる軽作業でお金になるようなことないかと相談したら、弁当箱を組み立てる仕事があるので、やってみないかという話をいただきました。村にいるお年寄りが集落センターに来て、そういった作業をして一日千円でもいいから小遣いを稼ぐ。お金を稼げるとお年寄りは元気になるんです。

五十嵐さん:提唱しているのが、年金プラス千円で、軽作業をして楽しみながら生活するとこと。もっと極端に言えば都会に家があって、住んでいる人の2箇所拠点でもいいと思います。春から秋はこっちにいて、そういう人でもOKです。やっぱり狙い目はリタイアした人。若い人でなくてもいいかな。実際は若い人や、子供がいれば一番いいのだけど、「じゃ生活費どうやって稼ぐ?」って言われれば大変な訳ですから。

(写真11. あつみ温泉から集落センターに医師の往診)

五十嵐さん:この地域に医者はなく、現在あつみ温泉から月2回来てもらっていますが、その他に隣町の病院のバスが週に2度この地域まで来てくれています。でも、そこでは往診には来てくれないので、あつみ温泉にいる医者と連携しながら最終的に往診にもきてもらえるような体制を作りたいと思っています。急に具合悪くなって、救急車で市内の総合病院に行ったとして、そこを退院した後、どこへ行くかが問題です。本当は家に帰って、家で往診を頼みながら自宅で様子をみるのが一番ですが、それも大変になってくると、どこかの施設に行かなくてはいけない訳です。

(写真12. 五十嵐さん)

ここにはその地域おこし協力隊が来ましたが、そういうのがない地域にヨソから人を受け入れるために、アドバイスはありますか?

 五十嵐さん:まず、集落ビジョンを作った方がいいと思います。ビジョンの中には、実現できないこともあるかもしれないけれど、(ビジョンづくりのために)まず、地域で話し合いをすることが、いろいろなきっかけづくりになります。また地域に話し合いをまとめる人や方向付けをしてくれる人など、ある程度慣れている事務屋がいた方がいいと思います。

受け入れる側が課題を持って、入ってくる人と一緒にやっていこうという意識がないといけないと思います。

(平成28年9月28日 インタビュー)

(写真協力:木野俣地域おこし協力隊)

 

 

 

新・農業人フェア 東京会場2月10日(土)に出展します!

鶴岡に戻って農業をやりたいとお考えの方、就職・転職先として農業をお考えの方、いつかは独立して農業を始めたいという方、農業に興味があるが何から始めたらよいかわからない方など、農業に関心のある方は是非、お越しください!

日  時 : 平成30年2月10日(土曜日)

場 所 : 池袋サンシャインシティ

      ワールドインポートマートビル4階 展示ホールA-1〜3

      東京都豊島区東池袋3−1−1

      <アクセス>東池袋駅より徒歩3分、池袋駅より徒歩8分

      開催時間 : 10:30 〜 16:30 (16:00受付終了)

 

詳しくは、こちらをご覧ください。

 

詳しくはこちらから・・

鶴岡市「宝谷地区地域おこし協力隊」隊員の募集について(2月19日必着)

鶴岡市「宝谷地区地域おこし協力隊」の隊員を募集します!!

活動地域である宝谷地区は、櫛引地域の東南、庄内平野を一望できる標高約270mに位置する中山間地域で、農業体験学習施設「ふるさとむら宝谷」を拠点に、そば打ち体験やそばの提供、自然散策など自然の豊かさに親しむグリーンツーリズムに取組んできましたが、人口の流出に伴う後継者不足など、対応しなければならない喫緊の課題が顕在化しています。

そのため、地域とともに地域づくり活動に取り組む人材として、都市部の意欲ある若者を積極的に受け入れ、これまで宝谷のために頑張ってきた元気な高齢者世代と若者の視点や発想を結びつけることで、新たな地域活性化の起爆剤とするため、次のとおり、「地域おこし協力隊」を募集します。

募集期間:平成30年1月19日(金)〜2月19日(月)必着

※正式な採用決定は、新年度予算成立後に通知いたします。

詳しくはこちらをご覧ください!

1月21日(日)に東京ビッグサイトにて開催される「JOIN移住•定住&地域おこしフェア」の鶴岡市のブースにて詳しいご案内もしております。是非、お気軽にお越しください。

宝島社『田舎暮らしの本』2018年2月号 「第6回 住みたい田舎ベストランキング」で東北第1位に!

新年明けましておめでとうございます。

いつも当サイトをご覧いただきまして、ありがとうございます。

本年も、移住•定住に関するお役立ち情報をはじめ、

地域情報などもどんどん発信していきたいと思います。

どうぞよろしくお願い申し上げます。

 

さて、1月4日(木)発売の宝島社田舎暮らしの本 2月号』

「2018年版 住みたい田舎ベストランキング」が発表されました。

「住みたい田舎ベストランキング」は、2013年にスタートしました。

第6回目となる今回は、移住支援策、自然の豊かさ、医療、子育て、災害リスク、移住者数など含む194項目のアンケートに671自治体が回答。

人口10万人未満の「小さなまち」と、10万人以上の「大きなまち」にグループ分けランキングを発表しました。

鶴岡市は「大きなまちランキング」にて

【総合部門】  第8位

【若者世代が住みたい田舎部門】  第3位

【子育て世代が住みたい田舎部門】  第10位

【シニア世代が住みたい田舎部門】  第17位

 

東北エリアでは

【総合ランキング】 第1位

【若者世代が住みたい田舎】 第1位

【子育て世代が住みたい田舎】 第1位

【シニア世代が住みたい田舎】 第3位

をいただきました。

これからも移住•定住をお考えの皆様から

選ばれるまちになるよう、魅力的なまちづくりに取り組んでまいります。

 

詳しくはこちら⇒⇒宝島社『田舎暮らしの本』2018年2月号をご覧ください。

 

No.24-後編 起業するなら東京より地方で!そして世界へ

稲川さんのインタビューの後編です。

稲川琢磨さんは2016年に東京都よりIターンし、洋食に合う日本酒を開発し国内外で展開する会社を立ち上げました。後編では実際に鶴岡に来てからの暮らしの様子を伺います。前編はこちらから・・

 

より鶴岡らしい環境で暮らすということ。

 稲川さん:ある方に「せっかくこういう土地に引っ越してきたんだから、より鶴岡らしさを味わえる環境、東京とは違う方がいいじゃない」と言われて、確かにと思いました。この家は9DKで大きいんですよ。たぶん集落で一番大きい家なんですよね。合宿所みたいな雰囲気が良くて、昔ながらの家っていう感じだったので決めました。他の家も見たんですけど、正直言うと、「これだったら東京に住んでるのと変わらないじゃん」みたいなところが多かったんです。ここは田んぼの真ん中で、夏は眠れないくらいカエルの大合唱がすごいんです。冬は雪おろしが大変ではありますけど。

(鶴岡市郊外にあるお試し住宅 写真提供:稲川さん)

稲川さん:お試し住宅の期間が過ぎた今もずっと住んでますよ。実は、一年のうち夏場は海外飛び回っていたり、東京で売り込みをしたりしていて、鶴岡には1週間しかいられなかったりします。春夏は外に営業にいって、秋冬は鶴岡がメインで暮らしています。酒蔵さんも大体そうじゃないですか?春夏は外に売りに行って秋冬は造りに入る。人によっては田んぼやるっていいますよね。うちはベンチャー企業なので、売り込みしないとやっぱりなかなか広がっていかないんで、外貨稼いでくるのも僕にとって一つの仕事なんです。

(写真提供:稲川さん)

心のよりどころとなった地域と人との繋がり

稲川さん:家から近いコンビニみやざき(地域のお店)は僕の心のよりどころですよ。毎朝カツサンドと珈琲を買って、そこで会話するのが僕の日課なんです(笑)。あとは、日帰り温泉「ぼんぼ」です。「ぼんぼ」が無くなるかもしれないというとき、僕は相当シリアスに切羽詰まっていました。あの温泉が無くなったら僕の精神状態が崩れるなって。それぐらいお世話になっているので。温泉はいいですよね。近くに住む五十嵐大輔さんが凄く面倒をみてくれることもかなり助かっています。大輔さんの家に行って美味しいもの食べながら酒飲むことと、雪下ろしはもはや楽しみになってくるんですよ。

(冬の積雪 写真提供:稲川さん)

雪国ならではのコミュニケーション

 稲川さん:そうです(笑)。この集落では冬の土日に晴れると、雪おろしするタイミングが皆一緒で、わぁっとみんな屋根に出てくるんですよね。屋根の上コミュニケーションみたいなのがあって(笑)。「稲川さんそこからやると危ないよー」とか言われて。「そうですかー」って(笑)。それでも2回屋根から落ちてしまいました。でも2階の屋根から1階の屋根に落ちたんで、尻もちくらいでした。雪降ろしは2階の屋根と1階の屋根なので、合計面積は凄まじくて、めちゃくちゃ大変ですよ。みんな命綱をつけずに長靴じゃなくてかんじき履いてやっています。僕は長靴でやりましたけど。こんな感じで、僕はこの一年で鶴岡の人より鶴岡の人らしくなったんです。

都会にはない周りがサポートしてくれる仕組みがここにはある。

稲川さん:鶴岡にきて、WAKAZEのメンバーに「うまくいっているのは鶴岡に会社を移したことだ」って言われるんです。僕が鶴岡にきて会社がようやっと立ち上がった感じがするし、1年目どうしようか悩んでいた部分がかなり大きかったので、東京にいたら、たぶんらちがあかなかったと思います。鶴岡には、周りにサポートしてもらえる仕組みがあったなと思っています。それは行政的な補助金的な部分もそうだし、起業支援もたくさんありました。鶴岡市のビジジネスプランコンテストで優勝できたのもすごく大きな契機になりました。また、借り入れの部分で地方銀行さんはサポートが厚いと感じます。東京では、ベンチャー企業なんて相手にされないんですよ。よほどのスーパーベンチャーでない限り、一生相手にされないですよ。僕は気軽な気持ちで起業したわけじゃないですけど、やっていることはどちらかというと誰にでもできる事。他とは全然違って、超コア技術を持っている訳でもない。起業に対するハードルってもっと低くていいし、自己実現ができたらいいと思っているわけです。ですから、最初の資金ぐりのサポートが受けられたり、補助金があったり、地元のメディアにしっかりと取り上げてもらえたり、そういう立ち上げの時の後ろからサポートしてくれる仕組みは、本当に有難いと感じています。ベンチャー企業って最初立ち上がる時に、既存の企業と違って、うちみたいに新しいモデルっていうか、世の中に新しい仕事を作り出そうとしている人たちにとって、世の中に新しい価値を送り込むってすごく最初パワーがいるんです。

(鶴岡市ビジネスプランコンテスト受賞 写真提供:稲川さん)

稲川さん:競合が少ないっていうのもあると思います。ここの地域においては競合が激しくないので、その分言い方悪いですけど目立てるというか、いろんな人に知ってもらえるっていうのはありますよね。東京だったらメディア一つとっても、残念ながら大手のメディアさんに行っても相手にされないですからね。早くグラフ出してこいみたいな。わかりやすい面白さ。スピード感があってぽんぽんぽんと売り上げが上がって、その理由はこうこうこうなのね、わかりやすい、って読める方が楽しいんですよ。でもそういう資本主義的な流れには乗らない、文化的な仕事を僕らはしてるわけなんで、我々にとっては、いろんな人がサポートしてくれて、劇的にお金が儲かる仕事ではないけれど、社会的に意義があることをやりたいと思っていたら、こういう場所でやった方がいいなと思います。だからそういう人には鶴岡に移住する事をぜひお勧めしたい。あとはサイエンスパークがあるので、横のつながりでいろんな経営者から刺激を受けられるので、すごくいいなぁと思いました。ただ、サイエンスパーク以外でもっとベンチャーが増えないとだめだと僕は思ってます。なるべくビジネスプランコンテストなどで、いろんな支援をしていきたいなと思っています。そういう人たちが出てくるための。ライバルが増えて欲しいと思います。

(海外進出へ 写真提供:稲川さん)

日本酒の新しい市場を作り、いずれは海外で自社の蔵をもちたい。

稲川さん:そうですね、まず海外売り上げをしっかり伸ばして外貨を稼げるようになること。僕らは既存の酒蔵さんが売っているところでパイを取ってくるべきじゃないと思っていて、ベンチャー企業なので、新しいマーケットを作らなきゃいけないと思っています。マーケットで、東京ないし海外から外貨を稼いでくる。僕らにとったらある意味東京も外貨に近いわけですよね。県外という意味で。そういうところにもっと焦点をあてて、結果を残していきたいと思っています。

(海外での営業 写真提供:稲川さん)

稲川さん:それがしっかり安定してきたら、次のステップとして、海外で自社の蔵を持ちたいということと、もう一つは直営店を出して、2020年の東京オリンピック以降に向けてしっかりPRできる場所を持ちたい。そこで鶴岡も庄内として、今年庄内オードヴィーさんに作ってもらう予定なんですけど、庄内全体をしっかりPRしていきたいなと思っています。もっと人が来るようになったらいいなと思っています。ボルドーじゃないですけど、ボルドーってお酒を起点にしていろんな人たちが来る町じゃないですか。ワイナリーをめぐりに来るわけじゃないですか。庄内もそういう町になったらいいなって思っています。僕らだけでできることでは全くないんですけど、ただきっかけの一つとして、僕らをきっかけに庄内のことを知ってもらって、来たいと思える人が増えたらいいなと思っています。

 ここ鶴岡で起業の仲間、ライバルをもっと増やしたい。

稲川さん:鶴岡市は結構いろいろ整っていると思います。お試し住宅があり、すごい良かったなって思います。ものづくり補助金とか創業サポート補助金とか、山形若者チャレとか、仕事だけじゃなくて移住に関してプライベートな面でも補助金があったりとかしてすごく手厚いなぁと思いました。手を挙げる人に対しては比較的すっと手が差し伸べられているような環境にあるなと思いました。やりたいっていう意志をはっきり表示しておけば、いろいろなところでサポートが受けられるっていう感じはしました。

(WAKAZEのメンバーと 写真提供:稲川さん)

稲川さん:補助金に頼りすぎるのもあんまり良くないですけど、立ち上がりの時って結構つらいじゃないですか。あればあるほど助かりますよ。起業に対する敷居がもっと下がればいいなって思います。不安がっている人の背中をどんどん押すだけでもしょうがないと思うし、どちらかというと、やりたいと思う人が強い意志を持って、そこにサポートが付いてくるっていう、主従の関係が逆だとだめだと思うんですよね。よくありがちなのが、サポートの方だけ頑張っていて、どんどん行けって言っているのに全然前に進まない、みたいな。じゃなくて、やりたいって人が居たうえで、そこに対してサポートがあるっていうのがあるべき姿だと思うので。やりたいっていう人が増えることが先かなぁと思います。その意味では、やりたいと思った瞬間にそれを周りに発信したり、仲間を巻き込んだりとか、そういうことができるといいなぁと思うし、そういった意味で鶴岡信用金庫さんがやっている経営者塾っていうのは僕今月講師やるんですけど、そういうのがあったりとか。あとは池田さんが立ち上げたインキュベーション施設のような場所があったりとか、ビジネスプランコンテストがあったりとか。どんどんそういう仕組みができてきているんで、そういう仕組みをもっと増やしていくべきかなぁと思います。早くライバルが増えてほしいですね。

インタビュー前編はこちらから・・

(平成29年9月19日 インタビュー)

No.24-前編 起業するなら東京より地方で!そして世界へ

今回の移住者インタビューは2016年に東京都よりIターンしされた稲川琢磨さん(29歳)にお話しを伺いました。稲川さんは和歌山県生まれ、東京育ち。洋食に合う日本酒を開発し国内外で展開する会社を立ち上げました。

(写真提供:稲川さん)

稲川さん:母の実家が熊野古道の近くにある和歌山県新宮市で、海と山と川が全部あり、鶴岡に少し似ている所で、少年時代はよく母の実家に帰省して、野山を駆け回って遊んでいました。野山の風景に親しみながら育ち、海も山も好きだったので、鶴岡に来ることに対して一切違和感がなかったのかもしれません。

根底に残っているのは、子供の頃に五感で体験したこと。

稲川さん:間違いなくありますね。それがあったからこっちに来たいなと思ったんで。磯でカニとったり、山ではカブトムシ捕って幼虫育てたりとか、自然の豊かな場所の方が、東京にいるより好きでした。夏休みや冬休みだけではなく、週末も連れて行ってとお願いしていたように思います。親父もドライブが好きだったので、山梨までカブトムシ捕りに連れて行ってもらいましたね。懐かしいな。

 稲川さん:中学・高校は立教の付属だったんですが、僕、小学校の時、実は一番最初に池袋校に推薦だしてもらったんですよ。中学校は、複数あって、家から近い池袋校には行きたくなくて、1時間半かけて通学する埼玉県新座市の方を選んだんです。親も基本的に束縛はしないタイプなので自由奔放に中高時代は過ごしました。

(フランス留学のとき 写真提供:稲川さん)

稲川さん:もっと外に出て自分を変えたい、大学受験でワンステップ成長し、新しい世界を見たいと思いました。でも、第一志望の大学には合格できずに、相当凹み挫折を味わいました。そんな折、慶應の「ダブルディグリー」でフランスに留学できるプログラムを知り、それに参加しました。「ダブルディグリープログラム」とは、学位交換プログラムのことで、最初の2年間は慶應で、その後2年はフランスの大学、そしてまた2年は慶應に戻って、飛び級扱いで修士に入れるというものです。6年でフランスの学位と、慶應の修士がもらえるはずだったんですが、興味ある特定の分野とサッカーしかやらなかったので、フランスの単位は結局落としてしまいました(苦笑)。だいぶ怒られたんですけど、結局慶應の修士だけとり、命からがら卒業した感じでした。卒業後は、「ボストンコンサルティング」っていうコンサルタント会社に入って、2年過ごし、そこの会社辞めて東京の青山で起業したという訳です。

(フランス留学のとき 写真提供:稲川さん)

海外で暮らすと実感する日本人というアイデンティティー。

稲川さん:僕は起業したいっていう想いより、海外で暮らした時に、否が応でも日本人だなって思う瞬間が沢山あって、改めて日本に対するアイデンティティーを感じてきたんです。そういう中で、もっと日本のいいものが世の中に知られて、それによって幸せになる人がもっといるんじゃないかなと思い、それが何なんだろうってずっと考えてきたのですが、答えがなかったんです。

稲川さん:就職してからもずっとその答えを探していたんですが、就職して1年目の冬に、お給料が入ったので寿司屋に行ったんです。そこで飲んだお酒が凄くフルーティで美味しくてびっくりしたんです。その頃日本酒と言えば、体育会系の部活だったので、飲みつぶすために飲むようなお酒しか知りませんでした。雷がドーンと落ちた感じで、「日本酒だ!」と思いました。「自分もこれを作ってみたい、もっと面白いものが作れるんじゃないか」と思ったんですよ。でも、実際に一歩を踏み出すのって勇気がいるじゃないですか。とりあえずやってみて、起業するかどうか後で考えようかなと。既に誰かがやってるならそこにJoinするのもありかなと思ったんですが、結局僕の性格的なところと、そもそもそれをやっている人がいないところで起業することになった訳です。ビールやワインでしたら専業で委託醸造のメーカーでやっている所ってあるんですが、日本酒だとないんですよね。自分でナリワイを作っちゃおうってことでこれを始めたっていう感じです。コンサルタント会社にもいたので、うまく仲間を集めて一つプロジェクトをやってみようかなと思い、立ち上げたのが会社ではなく「WAKAZE」というチームだったんですよね。それが原点です。2014年12月に思いついて、2015年1月に5名でチームを結成して、そのプロジェクトを始めました。

 

(WAKAZEのメンバーと 写真提供:稲川さん)

稲川さん:酒蔵でつくってもらったお酒のプロモーションをクラウドファンディングしたところすごく盛り上がったんです。さらに次のステップとして海外輸出を検討していたところ、経産省の「MORETHANプロジェクト」に選ばれたんです。「海外向けのお酒を造って販売していったら面白いんじゃないか、将来は蔵を持ちたいね」って話をしていたんです。でも日本の今のルールだと蔵を持てない、新規の免許は一切下りないんですよね、それなら委託醸造でやろうかと思ったのですが、会社を辞めてリスクとってまでやる人は、僕くらいしかいなかったんですよ。それで僕が2015年10月に会社を辞めて、2016年1月に起業したっていう経緯です。

「鶴岡でやりたい!」と自分の中に雷が落ちた。

稲川さん:最初は会社を東京に設立したんですが、酒蔵の近くにあった方がいいと思い始めました。委託醸造で酒蔵を持たずにメーカーになること自体が日本酒の業界では誰もやらないことで、実は結構行き詰まっていたんですね。酒造りって、生産者の近くでやらなきゃいけないし、委託醸造だともっと現場を見ながらやりたいという思いもありました。一度、酒蔵さんにお酒を造ってもらったんですが、ベンチャーでお酒を造るんだったらもっとイノベーションが必要だなと思いました。うちのお酒はその頃、普通のお酒で、それぞれの四季にあった造り方にこだわった「WAKAZE四季酒」というコンセプトは面白かったんですけどね。もっと面白いものが作れないかなぁと思っていたときに、ある人に「鶴岡」という所があるよと教えてもらったんです。前々から面白いなぁとちょっと興味はあったんですよ。慶應大学がそういうのを推進しているっていう話も聞いたんで、とりあえず行ってみようかなって。1泊2日でサイエンスパークをめぐるツアーに同行させてもらって初めて来たんです。それが昨年の4月くらい。その頃は一人でやっていて、その冬の酒造りに向けてどこに移住してやろうかと考えていた時でした。

 

稲川さん:夜の飲み会の席で「オーク樽でねかせた日本酒を作りたい!」とプレゼンしたんです。そしたら周りの人が「面白いじゃんそれ、やっちゃいなよ」と。隣で飲んでいたおじさんにも「You鶴岡来ちゃいなよ!!」って言われて、その場で僕は「じゃぁ来ちゃいまーす!!」と宣言して、来ることを決めたんです。自分の中に雷が落ちたんですよ。「鶴岡っていい場所だなぁって。ここでやりたい!」って。

紆余曲折のあったスタート。

 稲川さん:4月に来たいと思い、5月に情報収集のために鶴岡を訪れ、いろいろな人を紹介してもらい6月に完全に移住し、7月には登記場所も鶴岡市に移してそこからようやく会社としてスタートしました。でもその頃会社は、どこかに委託先があったかとか、商品の開発の目途が立っていたかというとゼロだったんです。「これでどうするんだよ?」みたいな感じで、この頃は本当に悶々としていました。酒蔵さんを回ってもことごとく断られましたね。自分が造りたいお酒がオーク樽でねかせたり、白麹を使ったり、普通の日本酒じゃやらないので難しかったようです。

(鶴岡の酒蔵さんと 写真提供:稲川さん)

稲川さん:たまたま入った駅前の地酒バーの店長さんにやりたいことを語って、そこから大山の酒蔵さんを紹介していただいたんですが、一度目はなかなか難しく、二度目は本気でぶつかり、ようやくなんとか一緒にやっていただけることになりました。それが8月で、その後9月にクラウドファンディングを始める準備をして、ようやく話が固まり始めました。

(写真提供:稲川さん)

稲川さん:でもそれからも樽の仕入れのことで、紆余曲折ありました。日本で今ウイスキーの需要がすごく伸びていて、そのおかげでワインの樽がかなり不足していて、樽がなかなか手に入らないうえ、価格も高騰しているんです。日本中駆けずり回って、いろんなワイナリーに行ったんですが断られまくり、最終的にはあるワイナリーのところで受けてもらえるという話になったんですが、直前になり、「やっぱりダメです。」みたいにひっくり返ってしまい、激震ですよね。どうしようもなくなってしまったのですが、知人の醸造家さんを通して山梨のワイナリーに行き、自分の夢を語って理解してもらい、ようやく手に入れました。

一番苦しかったのはゼロから一のところ。

稲川さん:今年は昨年に比べたら、一度実績を作っていたので、大分やりやすいと感じています。やはりゼロから一のところが一番苦しかったです。「こいつらほんとに買えるの?お金払えるの?」って思われてすごい大変でした。でも理解してくれる人や夢に投資してもらえる人達が出てきて、それでようやく形になりました。クラウドファンディングで600人から支援してもらい435万円集めて販売をようやくスタートできるところに立ったという感じです。

(写真提供:稲川さん)

稲川さん:去年1年は一人で結構しんどい時期は多かったです。しかも事務所には窓が無いので、最初はちょっと鬱になりがちだったんです。気持ちはやっぱ滅入りますよね。でもクラウドファンディングをやり始めたときは、必死なので、その頃はつらいとか通り越して、やるしかないみたいな感じでした。結果もかなり出たのでよかったんですよね。やりがいが出始める前の、悶々と考えたり、動いてもうまくいかない時期が一番しんどかったなぁと思います。

稲川さん:都会で起業するより、地方に来て起業する方がいいと思うんです。都会で、帰りたいけど仕事無いって皆さんいいますが、こうやって自分で仕事起こしてやるっていう人もいるよと知らせたいです。その場所としてこういう地方を選ぶ選択もあると。苦しい面も知らせたいし、そういうところをどうしてきたのか、1回実績を作ってるので経験をもとに伝えたいです。

続きはこちらで・・ 後編

 

 

 

 

No.23-後編 メンターになる人との出会いと地域に合わせた生き方への転換

芳賀崇利さんのインタビューの後編です。

芳賀さんは埼玉県三郷市のご出身、2012年にIターンされ、現在ウェブ制作やDTPデザインなどのサービスを提供する会社を経営し「庄内コンシェルジュ」を運営しています。現在、奥様とお子さんの3人で暮らしています。

移住してきて困ったことは?

芳賀さん:就職じゃないですかね。企業側が移住してくる人に全然理解がなかったように感じました。僕の場合は何の下調べもしてこなかったという部分が大きな原因だと思うんですけどね。世の中で地方への移住が取り上げられてきたのはここ2,3年ですよね。その間にだいぶ企業側も変わったように思えますね。あとは初めて会う人会う人が「こっちの人じゃないでしょ?」「何でこっちに来たの?」言ってくるやりとりですかね(笑)。それがだんだん面倒くさくなってくるんですよ(笑)申し訳ないですけど、何人かには嘘をついてますから(笑)最初の2年間くらいは入っていけなかったです。違和感ばかりを感じていましたね。

(写真提供 芳賀さん 友人との出会い)

転機となったのはメンターとなる人との出会い

芳賀さん:色んな人と会ってみることじゃないですか。僕にとっての転機は、日本西海岸計画のメンバーと出会えたこと。そこから人脈も広がったし自分も変わったと思います。もし、自分がありのままでいれる場所に出会っていなかったら、ここで生活しているとは思いますけど、今ほどアクティブじゃなかったと思うんですよね。地域に合わせた生き方、自分も表現してもいいんだっていうことに転換できた、つまりスイッチを入れてくれたのが日本西海岸計画のメンバー達なのかなと思っています。

今の仕事を今後どうしていきたい?

芳賀さん:世の中に必要なものをアイディア化し、時代に合わせたサービスを展開していきたいです。庄内で最も働きたい会社っていわれるような面白い会社を作りたいなと思っています。具体的には、賃金であったり、やりがいであったり、仕事内容については、決めつけないで、そこにビジネスチャンスがあれば何でもやっていこうと思っています。

移住を考えている人へのアドバイスは?

芳賀さん:地方にくるのも上京するのも同じだと思うんですけど、やっぱりその土地によって文化や風習、人の気質って違うと思うんですよ。最初はそういうものにカルチャーショックを受けることも多いと思います。地元に慣れるまでの間にいち早く先住者と出会うべきだと思うんですよね。そういう人に出会えなかった人は、どこか馴染めずに戻っちゃうのかなと。とにかくいろんな人に会ってみるということに尽きると思います。

(写真 日本西海岸計画 )

外から地域にお金を落としてもらえる産業をつくりたい

芳賀さん:一昨日から入社してくれた彼女も兵庫県からのUターンなんです。UIターンする人を快く受け入れてくれる会社や魅力ある企業がこの庄内に増え、地方から都市部へ就職先を求めて上京するように、若者たちが地元で就職し、そして都市部で働いている人が移り住み、自然豊かで人情味溢れるこの地域で暮らすことの楽しさがもっともっと広まっていってくれるといいなと思っています。

芳賀さん:また部からお金を落としてもらえるような産業(仕事)がこの地に生まれて行かないと地域経済って大きくならないと思います。そのためにまず、僕ら地域の人たちが楽しく暮らすこと。そして、魅力ある企業であり続けること。だと思っています。

芳賀さん:10年くらい前の庄内なら「出る杭は打たれる」という言葉のとおり、何か始めようとしたり、目立とうとしたりすれば、叩かれることも多かったんじゃないですか?でも今の庄内は右を見ても、左を見ても何か新しいことを始めよう、自分たちの手で地域を変えたいって思ってらっしゃる方々がいっぱいいるんじゃないでしょうか?叩ききれないくらいに(笑)そういうものを面白くないっていうんじゃなくて、一緒になって関わったり、共感できたりする文化ができれば、もっともっと魅力ある地域になると思っています。

もしそのまま東京にいたとしたら起業されていたと思いますか?

芳賀さん:親父が会社経営していたので、いつかは自分も好きなことで起業したいなという気持ちはありました。でも東京にいたらまだ起業はしてなかったと思います。東京でサラリーマンとして働いていた方が経済的には恵まれていると思うんですよ。また今と比較しちゃってますけど(笑)

芳賀さん:お金を稼ぐことはすごく大切なことですけど、一番大切なのはそこじゃないと思っていて、僕は庄内にきてそう変化しました。難しいことは考えずに自分が思うがままに暮らしていけばいいんじゃないですか。ネガティブな理由で帰ってくると難しいと思います。あれこれ考えても進まないと思うので、まず1回やって見た方がいいですよね。だめだったら戻ればいいし。やってみなきゃわかんないことだらけだと思います。僕だって1年目から絶対うまくいくって思ってたんですよ。蓋を開けたら「あれ?」って。

  

唯一生き残る者は変化できる者である

芳賀さん:そこで自分の考え方を変えられるかどうかですよね。いつまでも「東京でバリバリやってきた営業マンなんだぞ」って考えたら今の僕はないですね。「帰れよ!」ってはなしじゃないですか。ダーウィンの「最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるわけでもない。唯一生き残るものは変化できる者である」ってあるじゃないですか。僕の座右の銘なんです。

(インタビュー前編はこちらから)

(平成29年8月24日 インタビュー)

No.23-前編 メンターになる人との出会いと地域に合わせた生き方への転換

今回の移住者インタビューは2012年にIターンされた、埼玉県三郷市出身の芳賀崇利さん(38才)にお話しを伺いました。芳賀さんは現在、ウェブ制作やDTPデザインなどのサービスを提供する会社を経営し「庄内コンシェルジュ」を運営しています。現在、奥様とお子さんの3人で暮らしています。

(写真提供 芳賀さん)

最初に庄内に来たきっかけは?

芳賀さん:僕が小学生の頃に親父の会社が酒田にあったので、夏休みなどを利用して何度か一人で電車に乗って埼玉から酒田までに来たことがありました。酒田駅を降りるとちょっと訛った感じで「酒田~酒田~」っていうのが子供ながらに印象的でした。単身赴任だった親父は途中から酒田で会社を始め、僕が20歳くらいの時に会社が鶴岡に移りました。実は、22歳の頃に一度、親父の会社を継ぐつもりで入社し、鶴岡で暮らしているんです。でも1年で辞めて埼玉に戻っちゃったんですけどね。その後、もともと働いていた建築関係の職種に戻り、20代後半くらいまで働いていました。

芳賀さん:現場は東京都内が中心だったため、毎日作業着で電車通勤していたんですよ。満員電車には同世代の人たちがお洒落な細身のスーツを着て通勤していて、土日になるとあれだけギュギュギュウだった電車がガラガラになる。ある日、急にそういう人たちの働き方というか、「この人たちはどんな仕事をしてるんだろう」って、すごく興味を持ち始め、輝いて見え始めたんですよね。そして20代後半に「俺もそんな仕事がしたい!」「スーツを着た仕事がしたい!」って、本当に単純な理由で転職を考え始めたんです。

芳賀さん:そして神奈川県相模原市にあるプリント基板製造会社で念願の営業の仕事に就きました。ところが入社間もなく、過度な設備投資とリーマンショックの影響が重なり、会社は忽ち経営不振に陥り、民事再生法による会社再建も叶わず、投資ファンドに買収されてしまったんです。新会社設立による新体制。営業経験が浅かった私は新会社に残れたものの、営業部から開発事業部に異動するよう辞令があったんです。リストラだけで100名以上いた従業員が半分になったんじゃないですかね。それでも納得がいかず、社長と直談判し、「業績が良くなったら営業部へ戻してくれる」という約束を交わしたのですが、どうしても続けたかったので、会社を辞めることにしたんです。

鶴岡で暮らすようになったのは?

芳賀さん:神奈川の会社を退社してから取引先だった会社からお声がけをいただき、東京都台東区の御徒町にある商社に入社しました。その数年後、その会社を辞めようかと知り合いの商社の社長に相談していたところ、社長さんが辞めるならうち来いと声をかけてくれたんです。その間に1ヶ月ほど余暇があり、今までのこと、これからのことをぼんやり考えていると、ふと親父のこと思い出したんですよね。久しぶりに親父に電話したんです。

芳賀さん:そうしたら親父から「跡を継ぐ人もいないし、会社を辞めることにした」と聞かされ、自分の近況を話すうちに、「久しくあってなかったから会いに行ってみるか」と、観光でも行くような感覚で鞄ひとつ持って鶴岡に来たんです。声をかけていただいた社長さんに仕事をお断りし、そのまま鶴岡に残り、約5年がたちましたけどね(笑)実は、自分は東京でバリバリやってきたつもりでいたので、自分は喉から手が出る人材だって根拠のない自信があったんです(笑)。仕事なんかすぐ見つかるだろうって。だから最初の頃は仕事に関しては何も心配していなかったんです、とりあえず住んでみようかなって。

どんな仕事をしようと思ったのですか?

芳賀さん:とりあえず営業ならなんでもいいかなって思っていました。ハローワークに載っていた企業の4社くらい営業職で受けたのかな?でも全部だめだったんですよね。すごくショックでした。面接の冒頭で必ず「なぜこっちにきたのですか?」と聞かれるんです。生まれは埼玉ですが、親父がこっちにいてと言うと、「なんでお父様が心配で来たのに一緒に住まないのですか?」と言われ・・・。仕事の面接なのに、家庭の事情なんて別に関係ないじゃないですか。生意気なので面接の途中で、「一人暮らしすることってそんなに特別なことですか?」っていっちゃう訳ですよ。それだけが理由じゃないと思うんですけど、ことごとく全部落とされてしましました。(笑)商社でやってきた自信が「え。。。」ってなったというか。落ち込みましたね。

芳賀さん:ハローワークって一件ずつしか受けさせてくれないじゃないですか。そうすると一件応募すると書類選考で一週間、面接で一週間かかり、そこから合否に一週間かかるので、トータル3~4週間かかるんですよ。庄内に来て半年近くがたった頃、ようやく一社採用してくれた会社があったんです。本当にその会社には申し訳なかったのですが、3ヶ月で辞めてしまいました。まだ腹がくくれてなかったというか、向こうにいた頃と常に比較していたんですよね。給料の面とか、休みの面とか、こんな事をするためにここに来たのかなって。自分でしか出来ない、庄内らしい鶴岡らしいことをすれば向こうにいた時と比べることはできないじゃないですか。そこで「庄内コンシェルジュ」というものを立ち上げようと考え始めました。

芳賀さん:正直何度も帰ろうかなとも思いました。やっぱり面接で失敗すると、俺もうだめなんじゃないかって思う訳ですよ。営業というものを武器にこっちで就職することに対して。ある会社から、東京で営業の仕事をいくら頑張ってきてもこちらでは通用しないって、面接で言われたんです。今だからわかるのですが、こちらは、人脈というか人の繋がりが強いじゃないですか。営業の手法とかそういうものじゃなく、後になってそこがものすごく大事ってことに気づかされたんですよね。

 

庄内コンシェルジュはどのように立ち上げて行ったのですか?

芳賀さん:自分で何かできないかといろいろ、インターネットで探しました。そしたらある会社のホームページにたどりついたんです。そこではシステムを販売してるんですが、僕みたいにWebの知識がなくても運用できるシステムをライセンス契約できるんです。その時、「自分にもできるんじゃないか?」って思ったんです。まだ漠然と「こういうのがあったら面白いな」とか、「これだったら出来そうだな」とか。ウェブサイトについて本とか読みまくってメチャメチャ勉強しましたけどね。

芳賀さん:個人事業主として立ち上げたのは、鶴岡にきて2年目の冬です。最初はとにかく上手くいきませんでした。はじめは、あまり知り合いもいなくて、閉ざしてたというか、地元の人にあまり心がひらけなかったんです。矛盾してますよね(笑)。住むって決めているくせに、この頃ってまだ自分が就職できないことなど、地域のせいにしてたんですよ。「なんで俺を認めねえんだ」って。「分かってねえな」って。

芳賀さん:一番最初に営業に行ったお店が、親父が仲良くしてる人の店で、そこから色んな人を紹介してもらい、知り合いを広げていったんです。知り合いは増えていったのですが、『庄内コンシェルジュ』のサイト自体を、本当に誰も見てない訳ですよ。どうやってプロモーションしていったらいいかも分からないし。載せてくれる人もいないし。結局情報量が無さすぎて誰も見ない、見ないから載せないという負のスパイラルがあったんです。

芳賀さん:そこで、とにかく無料でもいいから載せてみようって思いました。最初にやったことは「お試しキャンペーン」です。まず媒体として情報量の多いものにしようと思い、そこにプラスして、載せてもらったお客様から紹介してもらうという風に広げていきました。少しずつ人脈も広がり、鶴岡青年会議所のメンバーとの出会いもありましたし、とにかく人が集まりそうなところがあればとりあえず行ってみましたし、今でもそれは続けるようにしています。

(写真提供 芳賀さん 赤川花火大会運営仲間と)

戻ろうと思ったのに踏ん張ったその理由はなんですか?

芳賀さん:意地ですよね。今でも思いますけど、帰った方が楽なのかな?って。給料水準も高いですし、なにより子供の頃から向こうで育ったわけですから。でも友達とかにも鶴岡に住むって宣言してきたのに帰るのは格好悪いじゃないですか。何もできずに帰って来たって言われたくなかったし、自分に「ここに何しに来たんだよ。」と自問自答でした。


芳賀さん:戻ろうかと迷ってた時期にある男との出会いがあるんですよ。日本西海岸計画の池田友喜が僕にアプローチしてくれたんです。どっかから僕の情報が流れてきたみたいで。俺を囲む飲み会をしてくれたんです。それまで移住してきた人との出会いが全くなかったので。まぁ自分が閉ざしてただけなんですけど、そこで彼と会って、こういう人もいるんだと思い始め、そこで自分も堂々と移住者だって言えるようになったんです。それまではよそから来たと言うと逆に入っていけなくなると勝手に思ってたところがあったんです。こんなにUIターンしている人がいるって知った時にすごい勇気をもらったんですよね。プライベートの部分でちょっと休めるとこが見つかったというか。本音を言えて励ましあえる人が見つかったので楽しくなっていきました。

(起業されてからのお話は後編で・・)

市広報9月号特集「地元で働くということを選ぶ」

広報「つるおか」9月号では特集では「地元で働くということを選ぶ」と題して

地元で働くことを選んだ人の声や地元就職を応援する取り組みが紹介されています。

是非ご覧ください。

 

 

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また広報つるおか9月号はこちらから