No.36「鶴岡で和紙づくり」時代とおもに変化し、生きていく

 

今回のインタビューは、2017年に岐阜県からUターン、現在上郷地区で和紙工房を営んでいる長谷川聡さん(56歳)にお話しを伺いました。

(インタビューを受ける長谷川さん)

長谷川聡さん。鶴岡市出身。高校卒業後は金沢の大学へ進学。その後和紙づくりに興味を持ち、伝統的な美濃和紙工法を学ぶ。2017年にUターンし、上郷地区で「長谷川和紙工房」を営む。

―これからの働き方

Q.元々、鶴岡に戻る予定だったのでしょうか。

A.私が大学に在学していた頃は、日本経済が右肩上がりで、アメリカよりも日本の土地の価値の方が高くなっていた時代でした。しかしこんな状況はずっとは続かないだろうと若いなりに心配していました。そこで、企業の中で働くのではなく、自給自足の面の強い農業をやろうと考え、いずれ鶴岡に戻るつもりでいました。しかし、現実問題として農業だけではやっていけないと感じていたので、うまく組み合わせられるものはないかと見て回っていた時に、農閑期に組み合わせてやれる和紙づくりと出会いました。

 

写真提供:長谷川さん(左:川ざらしを終えた楮(こうぞ)を運ぶ 右:工房前の積雪を掃いて紙干しの準備)

Q.その当時、和紙づくりというのは全国的に盛んだったのでしょうか。

A.和紙づくりというのは、本当は大事な仕事だと思うのですが、その当時の社会的な評価は低く、担い手も少ない状況にありました。生産性も低かったので、バブル時代においては衰退産業のように思われながらも、何とか日本経済に引っ張られてきたように思います。全国的に見ても、高齢化と若い後継者の不足が続いている状況が進んでいました。 

(左:和紙の原料となる楮(こうぞ)とトロアオイ 右:柔らかく煮た楮(こうぞ))

 ―和紙づくりを続けていくために考えたこと、行動したこと

Q.和紙づくりはどこで学ばれたのですか。

A.大学在学中に各地の和紙産地を訪ね、和紙の現状を見て回りました。卒業後は、金沢にある和紙工房で、生計を維持するために始めた学習塾の講師と掛け持ちしながら和紙の勉強していきました。その後、1991年、26歳のときに、岐阜県にある本美濃紙保存会の会長である古田行三さんに伝統的な美濃紙工法を学ぶ機会を得て、岐阜に移り住みました。

(紙漉きの準備、原料を混ぜ合わせる)

Q.岐阜での和紙づくりは、金沢での生活と違っていましたか。

A.金沢の工房では農業と和紙づくりが同時に行われていたので、岐阜でも同じように行っているものと思っていました。ところが自分が岐阜で仕事を始めたころには、二足のわらじでできるような仕事ではないと感じました。紙を漉(す)くという作業は、一見すれば単純労働に見えますが、できればそのことだけに集中できた方がいい仕事です。また、和紙づくりは、様々な人が関わっていて、皆がその役割を果たさないとできないのです。だから、新しい担い手が増えていかないと、関連する仕事をする方々が仕事を継続できなくなるので、和紙づくりが回っていきません。正直いって、農業との兼業を考えている場合ではないなと。師事して3年目に古田さんが他界してしまい、早くも自分で独立して起業せざるをえない状況になったことも大きいのですが、和紙の仕事に関わる比重が高くなり、忙しくなってからは岐阜に来てからも続けていた学習塾の副業も辞めて和紙の仕事を専業にしていました。この頃は、もう鶴岡にUターンして農業と組み合わせて和紙づくりをするといった意識はなくなっていました。目の前のことだけで精一杯でしたので。

(紙漉きの作業)

Q.和紙業界の事務局もされていたと伺ったのですが。

A.はい、本当は自分の仕事だけをしていたかったのですが、そういった活動もしていかないと、結局は、和紙業界自体が小さくなってしまっていましたから。私が岐阜に行った頃は10年後の存続も危惧されていて、若い世代の担い手もいませんでした。岐阜の産地は危機的に見られていたんです。今とまるっきり反対ですけどね(笑)。そこに若者が集まって来るようになってきたのは、岐阜県美濃市が後継者養成のための助成金、奨学金の制度を作ったことが大きいと思います。制度ができたからこそ、外部からの研修生を引き受ける仕組みも整備されていき、それから少しずつではありますが、紙漉きをやりに来るとか、職人希望の人も出てきて、今では県外からの移住者も含めて、20代から40代位の十数人の研修生が学んでいる状況になっています。

 ―新たな挑戦。産地以外での和紙づくり

Q.Uターンを決めたきっかけを教えてください。

A.ちょうど和紙がユネスコの無形文化遺産に登録されて本美濃紙もその一つとして登録されました。それにより広く周知され、若い研修生への支援も補助金などで拡充できました。私は組合の副理事長を十数年も勤めていましたが、行政や若い組合員らとの間で、今後の事業の進め方などについて意見の異なることが少しずつ多くなりました。私が調整しながら進めるだけでは結果的に必ずしも良い効果を生まないのではと思うようにもなったのです。また、補助金などの支援を受けて伝統技術の保存伝承に注力するだけでいいのか、注目を集める産地とそうでない産地の格差ができることが、和紙業界全体でみたときにこれでいいのかと思ったのです。現在の東北は残念ながら生産者も減ってしまい和紙の後進地域で、山形県内には4か所しかなく、庄内ではここだけです。でも和紙職人のように地道なことをコツコツやることは、東北人に向いていると思うのです。和紙づくりの歴史的背景がない地域でも和紙はできる。今までの「伝統のある産地でなければできない和紙」とは違った捉え方でできる和紙づくりを自分でやってみようと思ったのがUターンを考えたきっかけです。

写真提供:長谷川さん(天日干し)

―自分のアイデンティティ

Q.Uターンしてからの生活はどうでしょうか?

A.岐阜との違いは雪が多いことですね。自分が生まれ育った土地ではあるのですが、高校生の頃と、社会人になってからでは見え方が違いますね。また、お盆と正月などには帰省していたのですが、30年以上も経っているので以前との違いにも驚いています。以前、海外でハーフの方と話す機会があったのですが、「自分の国籍がどちらなのか、自分がどちらの民族に属しているのか、時々わからなくなる」と言っていたのを思い出しました。まさにそんな感じですね。自分が山形県人なのか岐阜県人なのか。ふと戻ってきて、どこかよそ者っぽい感じはしますけど、だからといって不都合があるわけではないのですが(笑)。今は地域の方と草刈りとか様々な活動を一緒にしています。

写真提供:長谷川さん(紙の選別)

―どこでもできる和紙づくり

Q.今後やっていきたいことがあれば教えてください。

A.チャレンジという点では、4つあります。

1つ目は、和紙の原材料である楮(こうぞ)という木の皮について、茨城県大子町が主産地でいつもそこから取り寄せていたのですが、今後は地元でも栽培できないかと思っています。

2つ目は、場所を問わない和紙づくりです。伝統工芸の産地でやることは、伝統の産業だとか、地域の昔からの文化だからというスタンスになりますが、そうじゃなくてもいいと思っています。「どこでもできる和紙づくり」。田舎でも、都会のマンションの一室でも和紙づくり教室みたいなものがあれば、和紙ってもっと身近になると感じています。

3つ目は、和紙の世界では環境対策が遅れています。排水処理施設を導入するような考えは進んでいないので、環境面からの設備投資として、県のよろず相談に相談して補助金をもらいながら試作機を作りました。まだ完全に導入できていなくてコスト計算ができずにストップしていますが。何か今後の対策に役立てばと考えています。

4つ目は、和紙に限らず、人間は自然素材に触れる体験欲求みたいなものがあると思うのですが、そういった体験を多くの人に知ってもらいたいと思います。以前、アメリカで紙漉きのワークショップに参加した時は、40~50人の列ができ、最終的に200人ぐらいの人が紙漉きのはがきを喜んで持って帰りました。こういった体験があったからこそ、「寿司」が和食を通り越して「Sushi」という世界的な概念になっているように、海外の人が「Washi!」と言って喜んでくれる時代にしていきたいなと思います。

(現在の工房の裏に自生する楮(こうぞ))

―伝統文化を保存しつつも、新たなものも取り入れていく

Q.職人としてUIターンを検討しているかたへアドバイスをお願いします。

A.これからは、伝統文化を保存しつつも、同時に新たなものを取り入れていく時代だと思います。古いものだけではなく、新しいものが出来上がっていけば、鶴岡に縁のない人でもそのモノに関心を持って来てくれますし、人を呼び込むには様々な方法があるはずです。例えば鶴岡は、ユネスコ食文化創造都市のイメージが強いと思うのですが、食だけでなく食にまつわるいろんなことがあってもいいと思います。食とシルク産業やしな織などの工芸品を組み合わせてもいいと思います。和紙が必要ということであれば、私も協力したいと思います。自分たちの活動の成果を広げていくことがとても大事だと思います。鶴岡からの情報発信が十分でないと感じることも多いのですが、若い人で本気でやってみたい人がいれば、積極的に情報をキャッチして来てもらいたいですね。

(しな織りに使う繊維を漉き込んだ紙(試作品))

(インタビュー文:草島侑子)