第5回目のレポートは今年の4月に東京から奥さんの実家にIターンし、現在農家さんのもとで修行を積み、新規就農を目指している黒澤剛さん、由希さんにお話しをうかがいました。
移住を考えたきっかけ
剛さんのご出身は大阪ですが、お父様は群馬県、お母様は宮城県登米市のご出身。お母様のご実家は米の兼業農家であったため、剛さんが物心ついたときには一年に1~2回は母の実家に帰省し、祖父の農作業を手伝いました。しかし、「農家は儲からないからやめた方がいい」と幼い頃から母に言われてきたという剛さん。三姉妹だったお母様の実家の農家を継ぐ人は誰もなくそこで途絶えてしまいました。しかしその頃の思い出から、剛さんの根底には、大阪で暮らしていても田舎が良い住環境だというイメージが残っており、自分は30歳を過ぎたら農業をしたいと考えていました。
剛さんが最初に勤めたのは、東京にある生活協同組合で、消費者と生産者を繋げる仕事を手掛けていました。しかし仕事の効率の面や営業成績で挫折を感じたといいます。その後、食に関するNPOに転職し、鶴岡に移住するまでで6年ほど働きました。
NPOで働きながらも、いずれ、母の実家のあった宮城県で農業をしようと考えていた最中、東日本大震災がありました。剛さんは、不眠不休でNPOの救援活動を通して何度も宮城県に足を運びました。支援活動をしながらもこの時、被災地で新しく農業をやるのは環境的にも難しいと感じたそうです。そんな折、由希さんと出会いました。
もともと、結婚相手は東北の女性と決めていた剛さん。由希さんが鶴岡出身と知り、「やった~(理想の結婚相手を)見つけた!」という感じだったそうです。その後、由希さんと初めて鶴岡を訪れたときに、ここで農業ができたらいいなと剛さんは思うようになりました。
一方、由希さんは、高校卒業後、県外の大学へ進学。その後大阪に就職し10年位経ち転職で東京に移動したところで、剛さんと出会いました。出会った当初から剛さんのいずれ農業をしたいという想いは聞いていましたが、農業に憧れる都会の若い人は多いので、そのうちの一人だろうと就農に対してはあまり深く考えていませんでした。
震災後3~4年が経ち、勤めていたNPOの組織自体も大きくなり、仕事も落ち着いてきたので、次のステップについて考えるようになった剛さん。農業はまだまだこれから成長の余地がありのびしろがある一方、高齢化とか耕作放置地とかいろいろな課題があり、自分はそれにチャレンジしたいと思いました。そこで、宮城県の亘理町、新潟県や長野県などいろいろな場所の知り合いを通して、実際に現地に行きいろいろ話を聞いたそうです。しかし、どこへ行っても地に足がついていない感じがしたという剛さん。農業をやりたいという人に対する支援や対策は全国どこにでもあるのですが、その支援を目的に移住先を決めるのではなく、あくまでも家族と寄り添いながら生きていくために農業がしたいとと剛さんは思っていました。
由希さんのご両親も70歳を超えていたので、由希さんの実家のある鶴岡でじっくり、地に足をつけて農業を目指していけたらと思ったそうです。そして、鶴岡というところを調べていくうちに、鶴岡市がユネスコ食文化創造都市に日本で初めて認定されたことや在来野菜への取組みなど、他の地域に負けず劣らず頑張っていることを知り、自分が想像していた以上に鶴岡は豊かな地域だとわかったといいます。
具体的に鶴岡に行こうと決めたのはいつ?
農業関連の説明会に何度か参加していたという剛さん。2014年の年末に開催された新農業人フェアに参加し、県の農業支援センターの方にいろいろと話を伺いました。早速、そこでプロフィールを登録したところ、年明けには、京田地区の佐藤才さんを紹介してもらいました。ちょうど正月休みで鶴岡にいたので、早速佐藤さんに挨拶に伺い、その翌週には体験でまた鶴岡を訪れました。それから、話がとんとん拍子に進んでいったそうです。
一方、由希さんは昨年までずっと剛さんが農業をすることに反対していたといいます。鶴岡で育ち、家の玄関をあけたら農地で、幼い頃から芋堀りをさせられたという由希さん。「田舎が嫌で都会に行ったのに何故、鶴岡に帰って農業?」とずっと反対してきました。
しかし、最近になり、自分も帰省したときに感じるこの落ち着く感じは一体何なんだろう?と思い始めていた由希さん。「庄内っていいところだね」という剛さんの言葉に改めて、鶴岡の良さを認識したといいます。早速実家のご両親に相談してみました。由希さんのご両親はサラリーマンだったので、圃場もないなかで、剛さんが新しく農業を始めることには反対だったそうです。
剛さんが以前勤めていたNPOがどんどん大きくなり、組織の在り方が変わり、その中で剛さんの立場も変わってきたときに、当時彼の人生と抱えているジレンマを傍らで聞いていた由希さん。剛さんが、そろそろ次のステップに行くのかなと感じていました。そしてちょうど自分の仕事もフリーランスだったこともあり、移住に向けて気持ちを固めたと振り返ります。
農業関係の情報はどうやって得たのか?
「農業人フェアとインターネットで情報を得ました。テレビにでるような農家さんはホームページもしっかりしていますが、実際に地域に根差して農業をしている人たちはホームページも求人もなかったですね。鶴岡市の農業関係の情報はまだ把握していませんでした。」
剛さんは、現在、山形県の青年就農給付金(準備型)を受けながら、京田地区の佐藤才さんの指導のもと、お米、枝豆、なめこの栽培を学んでいます。早速、佐藤さんの圃場を見学させてもらいました。お天気が良ければ鳥海山と月山を一望できるおよそ8haの圃場には枝豆と稲が栽培されています。また、佐藤さんのご自宅にはなめこの栽培棟がありちょうど収穫作業も行われていました。佐藤さんの奥さんや佐藤さんの嫁婿のミルコさんが剛さんをサポートしていました。研修生という立場ですが、家族ぐるみでよくしていただいているのが雰囲気からも良く伝わってきました。
移住の際に困ったことはありましたか?
由希さん
「今までは2人分でよかった食事の支度が4人分になり、両親の細かい注文に応じるのが大変です」と苦笑いする由希さん。「はじめは同居以外も考えていたのですが、両親が自分たちのために既に住まいのリフォームをしていてくれたんですよ。今は、親と同居してよかったと思っています。」
剛さん
「方言がわからなくて、怒られてるか褒められてるかわからないときがあって、怒られてると思ったら褒められていたんですね」と笑いながら剛さん。「思った以上に風が強く、自転車出勤しているのですが、風が強くて、平地を走っているのに、山を登っているように自転車がすすまないんですよね。」
「今まだ全然知り合いがいないので、これから作っていく感じです。公民館の飲み会にでたら、駅伝選手に選ばれていました。地域のつながりにおいては、東京では、NPOとか参加しても人との繋がりはそれっきりでまた出会うことはないのに対し、こちらは、地域で一度会えば、また必ずどこかで会いますよね。人との繋がりが濃いなと感じます。東京にいるときは、週1~2回飲み会、朝活もしていました。シェアハウスなどのプロジェクトにも関わっていました。しかしそこから新しいビジネスが生まれることはありませんでした。1年を通して地域の人との繋がりがあり、伝統と祭を大切にする暮らし、風土に根差していて地域の結束がすごいと感じています。自分が地域の集落、町、全体のなかの一人、地域に欠かせない人間として扱ってくださるのが嬉しいですね。」
これからどのように暮らしていきたいか
剛さん
「まだ来たばかりなのでよくわからないのですが、今までは、マンション暮らしで隣近所の人との交流は全くなかったので、初めて地域に根差して暮らしていくという上でプレッシャーな部分と楽しみな部分と両方あります。自分たちで地域を作っていく、自分たち次第で地域が変われるのかなという期待もあります。都会は人が多いから、隣の人の意見を聞くのも大変だし、自分の意見が反映されるのも難しいのですから。」
由希さん
「20年位地元を離れていたのに、また帰ってこれたのは一人っ子だったからかもしれませんが、両親が同居してくれるのも剛さんがここに一緒にきてくれたのも本当にありがたいと思っています。地域の中で役に立つというほどのことはまだ何もできないけど、たとえば、地域をきれいにする活動など前向きに参加したいと思っています。」
移住を考えている人へのアドバイス
剛さん
「自分は現場に行くのが好きだったこともあり、Iターンはインターネット上だけでなく、実際に現地へ行き、とにかく体験し、地域の人と接する機会を持つようにしました。働く中で地域の内側に少しずつ入っていくことが大事だと思います。はじめは観光で訪れても、次は少し長く滞在してみたり、その次はボランティアなどの活動に参加してみるのもいいですね。地域にできるだけ入ってみないと自分がそこに合うのか合わないのかわからないですからね。」
由希さん
「最初剛さんがが8割がた鶴岡に行きたいと思っていたときに、自分はまだ15パーセントくらいしか気持ちがありませんでした。一度地元に戻ってしまったら、もうでられないと思っていましたが、東京に用事があったらまたいつでも行けるんですよね。」
由希さんは、現在、ジュエリーデザイン、販売員研修の総合的なお仕事もしており、現在も、月に10日以上東京に行きます。
「ずっと住まなきゃいけないと思うのではなくて、半年住んでみてダメだったら1ヵ月東京に戻るというように、逃げ場を作っておくという考えもあってもいいのではと思ったら楽になりました。」
「テレビで地元の高校生が庄内以外で就職したいと思っている人が多いのを知り、そう思ってしまうのも仕方がないのかなと思いますが、自分みたいに東京を行ったり来たりする仕事もあり、女性の働き方の可能性を広げていけたらいいのかなぁと思っています。働き方のスタイルとして、自分のやっている仕事を誰かが見て自分もできるんだと思ってもらえたらいいなと思っています。」
(平成27年6月1日取材22日撮影 文・写真 俵谷敦子)
コメント
黒澤サン、丹波と鶴岡少し距離はありますが、同じ日本で頑張りましょう!この間はごめんなさい、今度お会いするときは必ずごちそうしますからね!奥様にもよろしくお伝えください。