第3回目のレポートは、しな織り研修生として、初めて鶴岡市関川を訪れ、一旦は鶴岡を離れたものの、また関川に移り住み今年で14年になる五十嵐さんをご紹介します。
山形県と新潟県の県境に四方を山に囲まれた戸数約40の集落、鶴岡市関川(せきがわ)があります。この関川は新潟県村上市の山熊田(やまくまだ)・雷(いかづち)地区とともに羽越しな布の産地として知られています。
生まれも育ちも東京という五十嵐千江(ゆきえ)さんが関川に来たのは、大学を卒業した22歳のとき。大学で染織の勉強をした千江さんは、織物の仕事がどうしてもしたくて、調べていくうちに、しなの木の皮の繊維を糸にして織る「日本三大古代織り」の一つにも数えられている「しな織」のことを知りました。当時、関川しな織協同組合の専務理事だった五十嵐勇喜さんの話を伺い、すっかり「しな織」と五十嵐さんの人柄に魅せられたといいます。そして、しな織の研修2期生(※)として関川にやってきたのです。
その後、2年間の研修期間を終え、一旦は東京に帰りましたが、26歳で関川の男性と結婚し、再び関川での暮らしを始め、今年で14年目になります。
(※) 関川しな織協同組合では、「しな織」の後継者を育成するために、全国から研修生を受入れています。
関川に初めて来たときの印象は?
初めて関川の地を踏んだのは、真冬の2月だったという千江さん。雪のないところで過ごしてきたので新鮮に感じつつ、ただただ雪の多さに驚いたそう。その頃は、水道水でなく山の水が主流で、薪ストーブ率も高く、突然動物が現れたりする生活環境はそれまでの暮らしとは、全く違ったといいます。
始めは研修生として村に慣れることで必死だったと振り返ります。何を話しているか言葉もわからず、それでも若い人たちとナイターバレーなどして交流を深めました。しな織研修生も今では10人を超え、受け入れ側も慣れましたが、当時は珍しく、村の人たちは話かけてくれたり、野菜を分けてくれたりして支えてくれたそうです。8時から17時まで関川しな織協同組合で仕事をし、17時以降は近所で夕飯をごちそうになったりするなど、親密になるにつれて、徐々に言葉にも慣れていきました。
研修が終わり、東京に戻るときはどんな感じでしたか?
2年の研修を終え、東京に戻った千江さんは、関川以外に自分にもっと合う場所が他にあるかもしれないと思い、他の織物の産地をいろいろ見て回りました。そのとき、あらためて「あ~しな織をしたいなぁ」と心から思ったといいます。また、それまで関川で築いた人との係わりが途切れず続き、縦と横の繋がりもできあがって、関川がふるさとの様になっていました。
千江さんは、村の人との関わりだけでなく、歴代のしな織研修生との関係も続いていました。「今でも、しな織をしたいという研修生とずっと繋がっていて、何かあると連絡をして相談したりしているんですよ。」しな織と関わっていきたいという研修生たちが、関川に残っている千江さんを介してずっと繋がっているのです。
結婚を機に関川に移住した千江さんですが、直ぐにしな織の仕事はできませんでした。千江さんは、関川しな織協同組合に入り、今年で7年目になります。「『織り手』として仕事をしたかったのですが、実際に『織り手』になることは難しく、主に事務や経理を担当をしました。今も、『織り手』以外の仕事をしていますが、織り手、作り手、事務も含め総合的にしな織のことがわかるので勉強になっています。後継者が不足していることや、今後の方向性など、課題を含め携わっていかないと、しな織が広がっていかないと思うのです。本当は『織り手』になりたいけれど、今いる自分の『場所』で出来ることは何かを考えられるようになったのはつい最近のことです。それぞれの立場の大変な所が見えてくると、スムーズに仕事がつがなるように進めたいと思うのです。」と話してくれました。
「研修生でいた2年間は、限られた期間の中での関わりだと感じていましたが、結婚をして、この土地にずっといるかと思うと、大変なことに直面しても乗り越えていこうと考えるようになりました。
これから長い間暮らしていくからこそ『こんな楽しいことがあるのね』と思ったり、いろいろ大変なことがある分、同じくらい楽しいこともあるのだと、楽しいことの比率が大きいとき、ここにいてよかったと思うんですよ。」
移住の際に困ったこと
「結婚して関川に来てからは同居生活で、その生活環境は生まれ育った所とは異なることが多く、研修生の時にある程度わかっていたつもりでも、実際に家庭に入ると物事の考え方などが変わってきました。子育ても自分の手で育てたい気持ちがありましたが、皆で育てようと気持ちが変わりました。家族や地域の方々に囲まれて成長していく環境の方がいいのではないかと思うようになったんです。子どもと共に親も育てられ、成長していけたら。」現在三人の小学生の男の子のお母さんでもある千江さんは、そう話してくれました。
帰りたいと思ったこともありましたが、結婚して家族が増えていく事は楽しい事。子ども達にとっても、関川と東京の両方を知ることができるのは、いいことだと思っています。四季折々の海、山の産物や自分の食べたいものを育てる『自給自足』の生活は、関川ならではの事で、東京では経験できないことだったろうと思います。また自分の親戚がいないと何かあったときに頼る人がいなく不安になりがちですが、それは考え方次第で変わります。どこで暮らしても、その土地で楽しみながら過ごし、周りの方々から支えられつつ暮らしていく事で、輪が広がっていくものだと思います。」と千江さんはいいます。
これからどのように暮らしていきたいか
「スキー場もなくなり、来年小学校も統合し年々環境が変化していきますが、子供たちにとっては視野が広がる機会になるのではと思います。冬は雪深く、辺り一面真っ白の世界です。大変なこともありますが、楽しむことも大事。大変だからこそまわりと関わっていかないと生活できないし、まわりとの関わりが深いからこそ大切なものもあります。
関川はしな織を中心に、地域の結束も強いと思います。これからしな織を受け継いでいく為には、関川の人だけでなく、様々な人と関わり、そして繋げていかなくてはいけないと考えています。私は、しな織に関わりたい方々と関川とのパイプ役的な役割ができたらいいなと思っています。」
「これからのしな織については、どう広めていくかなど課題は尽きませんが、なるべく広い視野で考えていきたいと思います。従来は、しな織でどんな商品が出来るか、村おこしがきっかけになりネクタイ・カバンなど小物を中心とした物づくりを行ってきました。今後は今までの物づくりを踏まえつつ、更にしな布らしさを追求していきたいと思っています。年々しな布の量は少なくなってきているので、限られたしな布をいかした物づくりをしていきたいです。」と千江さんの思いは広がります。
移住を考える人へのアドバイス
「大変なことは何かしらあると思いますが、必ずどこかで誰かが助けてくれます。それを受け入れる器、相手にゆだねる気持ちを持って欲しい。」と千江さんはいいます。「困ったときも嬉しい時も、必ず周りは支えてくれます、身近にいてくれる人たちに感謝しつつ頼っていく事が大切だと思います。皆、移住するときは決心してやって来ますが、『なんとかなるだろう』と思うのも大切ですね。」
「『これ食べてごらん』と差し出されたもので、見たことも食べたこともないものでも、まず食べてみるといいですよ。はじめの一歩。そこから繋がりが広がっていくんですよ。自分は移住して時間が経っているからもうすっかり地元の人になっているかもしれませんね。」と笑顔で話してくれました。
(平成27年4月15日取材 文・写真 俵谷敦子)
コメント
はじめまして。
埼玉県在住になります。
今回、着物の夏帯として、シナ布名古屋帯を購入したきっかけがあり、しな織を意識して見るようになりました。父親の実家が新潟ということもあり、産地の村上に親しみがわきました。今の時代の中で伝統を繋ぐ役割を担っている方々の瀬戸際での踏ん張りが、今の着物文化をなんとか支えているところへ、若い力として入って行かれた勇気と決断力に心打たれました。子育ても含め、良いも悪いも吸収し、自分の力に変える姿勢は素敵だと思います。
村上へ行く機会があるときには
しな織をもっと知りたいと思います。
大阪市中央区で串あげの店をしています。40年程前に夫婦で始めました。その時私の両親から祝いにしな織ののれんをもらいました。とても気に入り20年位かけておりました。流石に痛みもう1度同じ店で同じ品を作っていただきました。それから又20年が過ぎ今回も作り直したいと、思っていますが、以前頼んだ店がなくなりました。しな織ののれんでないとと主人が探しています。どちらでお願いしたら作れるのか教えて頂けると助かります。