あつみ温泉の一角で、本屋とアトリエを併設した【本と藍 あばり】を営む佐藤絋平さん・織恵さん夫妻は、2020年の春、当時小学2年生だった息子さんと共に神奈川県逗子市から移住しました。
プロフィール
佐藤 紘平さん (1983年生・鶴岡市出身)
27歳の時、東京での生活をスタート。アウトドア関連会社で勤める中で、ものづくりの基礎を学び、息子さんの誕生を機に主夫業に専念するため退社。その後、移り住んだ神奈川県逗子市では、仲間と共同で自主保育(詳細は後述)をするなど子育てを一番に考えた生活を送る。親族の体調不良をきっかけに、地元である鼠ヶ関にUターン。
佐藤 織恵さん (1977年生・千葉県出身)
保育士として東京都内の公立保育園20年勤めた後、神奈川県逗子市の森の中にある食育農園を併設した保育施設に就職。保育士としてパーマカルチャー文化やアートを取り入れた保育に2年間携わる。紘平さんと共にIターン移住。
「あばり」では22年間続けた保育士の経験を生かして選書する絵本が人気。
Q 鶴岡へ移住をすることになったきっかけを教えてください。
紘平さん
「鶴岡市に帰るきっかけは、鼠ヶ関に住む僕の親が病気になったことでした。今は元気ですが、それが一番の理由です。帰るべきかどうか、悩みましたが、一度実家の様子を見に来て、地元に戻ろうと決めました。」
Q どういった理由で悩んでいたのでしょうか。
紘平さん
「息子にとって、何が一番良いのかということです。ここに来る前に暮らしていた神奈川県逗子市では、自主保育をしていました。保育園に預けるのではなく、仲間たちと一緒に、当番制で毎日子どもと過ごすという、子どもと親との教育現場です。こっちではまだあまり親しみのないスタイルかもしれませんが、向こうでは一般的で。月に一度は懇親会があって、みんなで持ち寄ったご飯やお酒を、みんなで一緒に食べる。そんな“同じ釜の飯を食う”という過ごし方をしていると、段々みんな親戚みたいになってくる。そういったコミュニティが逗子の暮らしでは確立していたので、離れるのは勿体ないかもしれない、という迷いもありました。」
織恵さん
「そのコミュニティは、息子が赤ちゃんの頃に活動が始まったチームで、息子の成長と一緒にコミュニティの規模も大きくなったんです。主な懇親会の場は海で、すごく楽しかったです。その他にも、キャンプへ行ったり、山に行ったり、寝食を共にしているので親も子もまるで親戚のようでした。お互いに信頼しているから、子ども達も安心して預け合える。そういういい関係が出来ていて、子どもも、みんな親友だって言っていたくらいだったので、何年間も一緒にいた友人と離れるのは息子も苦しかったと思います。」
紘平さん
「ただ、当時僕たちの子供は小学校一年生で、これから、三年生・四年生と学年が上がっていく段階でした。友達との絆もより深まって、記憶も鮮明になっていくことを考えると、動くんだったら今だなと思いました。それで、二年生に上がるくらいのタイミングで鶴岡に越してきました。」
織恵さん
「引っ越しの時、自分たちでトラックを借りたのですが、荷物を運ぶのは仲間たちが全部手伝ってくれました。お祭りのように、みんなに運んでもらって。そうして、こっちにやって来ました。」
Q 実際に引っ越してみて、息子さんはどのように感じていたのでしょうか。
紘平さん
「実は彼が、家族の中で一番田舎ライフを謳歌していますよ。向こうで学校に通った1年間は、不登校というわけではないのですが、ちょっと今日は学校行かない、という風に、登校する・しないを自分で決める、“学校やんだ”※スタイルで過ごしていました。今思えば、向こうはひとクラスに30人くらいの生徒がいて、息子にとっては人数が多かったのかな思います。こっちに帰って来たら、ひとクラス10人くらいで、楽しく過ごしているみたいです。」※“やんだ”は庄内弁で“いやだ”という意味。
織恵さん
「釣りも楽しんでいます。息子は釣りがすごく好きで、家の目の前が釣り場ということもあり、夏には朝の5時くらいから、登校前に海によく行きますね。まだ子ども一人だと危ないので、付き添いで釣りに行きがてら一緒に釣りをしているうちに、私も意外と釣りが好きだということが分かりました。」
Q ずっと関東で暮らしてきた織恵さん。移住後の生活でギャップを感じたことはありましたか?
紘平さん
「元々、夏と冬には帰省をしていたので、妻もある程度、鶴岡の自然環境は知っていたんですよね。少し違いますけど、宮城の白石、蔵王の方にも親戚がいることで、田舎には慣れていたのかなと。」
織恵さん
「私は逆に22年間ずっと働き続けていたので、仕事を辞めた開放感の方が大きく、伸び伸びしていたように思います。移住した5月は、春の気候で、これからどんどん過ごしやすい季節になっていく良いタイミングでした。これが例えば冬に向けて寒くなっていく時期に移住していたら多少ギャップもあったのかもしれませんが、丁度気持ちの良い気候が続いたので、特にギャップを感じずに過ごせています。私たちの住んでいる場所は海沿いなので、カメムシなど虫の心配もありません。家からは海が見えたりして、楽しいという気持ちの方がまさっています。」
Q 2021年1月に【本と藍 あばり】をスタートした絋平さん・織恵さん夫妻。移住後、お店をオープンするまでの経緯を教えてください。
紘平さん
「地元に帰ってきて、最初はひたすら片付けをする毎日でした。僕らがこれから住もうとしている実家の小屋があるのですが、僕が都会に出てから7、8年分、随分と物が溜まっていたので、まず小屋の整理を半年、1年近くかけてやりました。実家は元々漁師の家系ですが、漁は父の代でもう辞めていたので、小屋の中で埃を被っていた船道具や漁業に使う網など、膨大な量をひたすら整理し続けました。放ったらかしにすることも出来たと思いますが、それらを残したところで、将来子どもに迷惑かけるかもしれません。やれるなら僕が今のうちに責任を持って、と黙々と処分していきました。
仕事については、自分たちはある程度自由に暮らせるし、やりたいことをやる、というスタイルで暮らしてきたので、こっちに来て会社に勤めようという考えは最初からありませんでした。」
織恵さん
「鶴岡では保育士は人手不足のようで、周りからは誘われたのですが、もう保育士の道には戻らないと決めていました。元々本が大好きで、一日中本に囲まれて過ごしたいという思いがあって、図書館などの求人も探したんですけど、なかなか空きがないので、じゃあ無理だね、なんて話をしていました。」
紘平さん
「僕はずっと主夫をしていたのですが、子供が小学生になり、日中に時間が取れるようになってから、また仕事として、服など、ものづくりを再開しました。それをこっちでもどうにか続けていけたらと思っていて、奥さんは本屋をやりたいという気持ちがあったので、じゃあ、お店にしちゃえばいいんじゃないかなってふと思いつきました。
お店を出すとしたら、子どもが急に体調を崩した時など、すぐに駆けつけることの出来る距離が良いと思って、あつみ温泉が候補に挙がりました。観光協会や商工会に連絡を取って、物件の案内をしていただいたのですが、大通りは条件が合うところが見つからず、帰ろうとした途中の一本道から、ふいにこの小屋が見えたんです。
あ、あそこに良い小屋があるねって、近くまで行ってみると、看板に、『小屋貸します』の文字がありました。でも、その看板も、設置されてから大分経っているような見た目で。無理かもしれないけどと思いながら問い合わせ先に電話してみたら、貸してますよと言われて驚きました。翌日にはもう大家さんに小屋の中も見せてもらい、もうそのまま借りることに決めました。」
織恵さん
「物件が見つかっちゃったことだし、じゃあやろうかって話して。淡々と準備を始めることになりました。」
紘平さん
「だからこの小屋が見つからなかったら、やってないかもしれません。そのくらい、たまたまの出会いで、どちらかというと物件先行で決まったという経緯でした。」
Q一周年を迎え、たくさんの方に愛されている【本と藍 あばり】さん。お店を始めてから変化はありましたか?
織恵さん
「お店をきっかけに色々な方と知り合いました。こうして、色々なコミュニティが広がって、ご縁が繋がっていくのが嬉しいです。
元々、絵本を主体にしようと考えていたのですが、料理の本なども好きで、他のジャンルも並べることにしました。子どもだけじゃなく、お父さんも、お母さんも買えて、みんなが楽しめるようにと思うと、本の種類も広がりました。」
紘平さん
「最近は僕も選書に加わるようになりました。まだあまり知られていない小さな出版社にも素敵な本が沢山あるんですよね。本はひとつの文化だと思っていて、色々な文化を手に取れるのがいいところだと思います。」
織恵さん
「今、本の業界も変わり始めていて、小さな出版社による本が増えてきています。骨のあるような本を作っていたり、普通の流通販路には乗らないような本に出会えることもあります。勿論、昔から変わらない部分もありますが、そうやって本の世界も変わり始めています。」
紘平さん
「僕は、日常着をベースとしたものづくりを縫製から染色まで、一貫して行っています。通常、藍染めは陶器の甕(かめ)を使用して行うことが多いですが、僕は実家の倉庫に長い間しまってあった味噌樽を初めて見たときから、これでやってみたいなと思っていました。日本でやっている方もあまりいないのですが、昔は木でやっていたはずだからと考えて試したところ、ちゃんと色も出て、藍染めも出来ました。これは僕の中ではひとつ立証できたな、と思っています。」
Q鶴岡に新しい風を運んでくれたお二人の、今後の展望を教えてください。
紘平さん
「何よりも、お店を継続していくことですよね。こういうものが、世の中にはあるんだよっていうことを、今の子たちに知ってもらいたい。都会にはあると思いますが、こっちでは珍しいスタイルだと思います。若い子たちは、どこか諦めてしまうから都内へ出ていくのかもしれません。一度は広い世界を見たほうが良いこともあるし、勿論、ここから出なくても良いのですが、遠くへ行った時にも、そういえば、自分の地元にこういうお店があったなと記憶に留めてもらえたら。今は物流がしっかりしているので、田舎でも、セレクトしたものを並べてお店として成り立っている。そういう情報を発信するためにも、この場所で店を続けていきたいと思っています。」
しんしんと雪が降り積もる1月のある日、店内は、懐かしさと新しさが同居する温かい空間でした。