No.26-前編「人生の何に豊さを求めるか」で選んだ地元での暮らし

今回の移住者インタビューは2016年に東京都からUターンされた岡部浩美さん(45歳)と千信さん(44歳)さんご夫妻にお話しを伺いました。岡部さんご夫妻は現在、コーヒー豆専門店を営み、自家焙煎のコーヒー豆の販売の他に、イベントやコーヒー教室を通じて地域の人々の憩いの場となるよう取り組んでいます。

(写真提供:岡部さん)

浩美さんは鶴岡市のご出身。高校卒業後茨城県の大学へ進学、大学卒業後26歳まで神奈川県でレジャー産業の会社に勤めました。その後渡米し日本語教師を目指しましたが、変更し3年間セントルイスのカレッジに通い情報システムの勉強をして、30歳直前に日本に帰国しました。

(アメリカにてホストファミリーと 写真提供:岡部さん)

浩美さん:「ITのことも分かった、英語もできる、さあ仕事!」って思い東京に戻ったら意外にも年齢のハードルがあったんです。最初普通に日系のシステム会社に面接したら、30歳を目前にして「結婚はどうするんですか」とか、「ご両親の面倒は誰が見るんですか」とか聞かれて、「あ、これが日本の現実だー!」と思い知らされました。結局、派遣で外資系金融機関に働き始めて、そこからとんとん拍子で正社員になって、転職でキャリアアップし、最後は外資系投資銀行に10年間勤めました。

(職場のチームメンバーと 写真提供:岡部さん)

浩美さん:東京に住み始めた頃は、便利で楽しく刺激も沢山あり、仕事は外資系で条件がよく、友達にも恵まれ毎日楽しく過ごしていました。でも家庭を持ちたいと考えると東京にいていいのかなと思うことがありました。さらに30代後半くらいになると、東京では十分楽しんだし、都会で得られる楽しみじゃないものに豊かさを求めるようになりました。それで、鶴岡に当時の経験を活かせる仕事があるかどうか探してもらったのですが、そういった仕事は山形にはないから東京で働き続けた方がいいのでは、と言われてしまいました。それでも、東京から地元の婚活イベントに参加しましたが、結局仕事を辞める踏ん切りがつかず、気付いたら40歳になっていました。

(東京にて 写真提供:岡部さん)

千信さんは、東京ではどんなお仕事をされていたのですか?

 千信さん:僕は東京出身で、仕事はずっとシステムエンジニアです。親父がもともとシステムエンジニアで会社も起こしていたんですが、「お前は入れない」と言われていて、親父の知り合いの会社に商品管理として就職しました。パソコンが当時まだ普及していなくて、インターネットもまだ早期の段階でしたが、僕はインターネットとかシステムについてできたので、商品管理部は在庫管理が必須じゃないですか。それで自分で商品管理のソフトを作って社長に直談判して自社で取り入れてもらい、そこからシステムエンジニアになったっていう訳です。5、6年は正社員で働き、フリーランスっていう言葉がはやり始めた時期に僕もフリーランスになり、それ以来ずっと個人事業主です。フリーランスになってから大企業のシステムとかも手掛けさせていただきました。実は小学生の頃からパソコンを触っていたので、みんなが物怖じするようなシステム等も平気でいじっていたんですよ。システムエンジニアをずっとやっていても良かったんですけど、昔とは変わり、システムがチープ化して誰にでもできるようになってからは、システムエンジニアとしての面白みを感じられなくなりました。

鶴岡に帰ろうと思ったきっかけは?

 浩美さん:40歳を過ぎた頃、「私はずっと独身だな」と思って、一人で生きていく決意をしました。マンションでも買ってこれから一人でやっていこうと思った矢先、夫と出会い、4カ月で結婚。東京での二人暮らしが始まり2年後に子供を授かりました。結婚当初、鶴岡へ挨拶に来たり、実家の父のお見舞いで月に何度か一緒に帰省したりしていて、夫も鶴岡を気に入ってくれたみたいですが、その時は具体的にいつ帰ろうとかありませんでした。ただ、いつか帰ってきてもいいねっていう話をして、子供ができたことで鶴岡に帰る話が急に具体化しました。

千信さん:基本的に、場所の拘束の概念も無く、仕事のベースもどこでも良かったんです。東京にずっとこのまま暮らしていれば、お金は稼げる、仕事もあります。でも東京には物がありすぎて幸せにはなれないなって思いました。

(鶴岡マイプロに参加した岡部さん)

浩美さんは2015年のUIターンサポートプログラム「鶴岡マイプロに出会う旅(※)」に参加されていましたが、このマイプロは何で知りましたか?

 浩美さん:「鶴岡に帰ろう」って思った時に鶴岡の情報をいろいろインターネットで検索していて「鶴岡マイプロに出会う旅」のことを知りました。まだ子供が2か月で、ぎりぎりまで参加するか迷いましたが、高校を卒業して進学や就職で鶴岡を出た人には、地元の情報が全くないため、鶴岡のオトナの事情が分からず、何かつながりができればという思いがありました。盆正月に帰省してもあまり人には会うことはなく、実家にいるだけの状態ですから。「マイプロ」に参加したのは、私にとっては大きな一歩だったと思います。「マイプロ」に参加することで鶴岡の今を知ることができたし、何よりも鶴岡ナリワイプロジェクトの人達と出会うことができたことが一番の収穫でした。鶴岡に来てからオープンした珈琲屋のカーテンや看板そして一緒に販売しているクッキーは全てそのときつながりでの仲間に作ってもらったんです。

※「鶴岡マイプロに出会う旅」は、“鶴岡ともっとグっと近づきたい!”という想いに対してアクションを起こすあなたのプロジェクト「マイプロ」を、東京と山形県鶴岡市を行き来しながら、仲間たちと共につくっていくプログラムです。

 

(鶴岡ナリワイプロジェクトの仲間に作ってもらったコーヒー豆の麻袋を使ったカーテン)

システムエンジニアから全く違う職種の珈琲屋さんを開業したのはどうしてですか?

 千信さん:そもそもシステムエンジニアという仕事は、最近の言葉でいうとテレワーク、要はリモートでもできる仕事で、東京に行けば仕事のニーズはあるんです。そういった意味では、最悪、食べられなくなったら戻ればいいっていうのがあります。とはいえ、こちらに来てシステムエンジニアをやりたいかと言われると、やりたくないっていうのがあります。結婚して、「鶴岡に帰るかも」という話になった時に、「じゃあここでできる仕事を何かやろう」って思いました。もともと僕は料理が好きで、料理系の仕事をやりたいと思い、製菓と製パンと珈琲をを学び、パン屋で修行もしましたし、ケーキも作れます。珈琲に合うケーキの話なども勉強しました。珈琲は東京の谷中に有名な珈琲屋さんがあり、そこのセミナーでみっちり教えていただきたときに、珈琲をナリワイにしてみようと思いました。万が一ダメだったらシステムエンジニアに戻ろうと思いました。

浩美さん:鶴岡での仕事に不安がないと言えばうそだけど、東京にいて同じ仕事を続けていたら不安がないかというとそうでもない。外資系はリストラが当たり前で、毎年毎年、「今年は誰だ?」っていう時期が必ず来ますから。

 

(東京の自宅にて 写真提供:岡部さん)
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