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No.28 前編 「一度地元を出て、地元に戻る」という経験そのものが武器になる

今回のインタビューは2015年に宮城県仙台市から市役所職員としてUターンされた櫻井開さん(33歳)にお話しを伺いました。櫻井さんは鶴岡市生まれ。高校卒業後、宮城県の大学に進学し、その後仙台の建設会社に就職しました。実家は農家という櫻井さん、自分の定年までに帰ってきて家を継げばいいかなと漠然と思っていたそうです。

(写真 致道館、文化会館タクトの前で)

―「鶴岡に帰ろう」と思ったきっかけは?

櫻井さん:就職して8年間は、生活の拠点は仙台か盛岡にあったものの、仕事の関係で東北を転々としていました。子供が幼稚園に入園して小学校の入学を考えたとき、生活の拠点をどこにしようかなと思い始めました。その時は仙台にいたので、仙台か実家のある鶴岡かと考えていましたが、実家の親から、鶴岡市の広報に市の職員の社会人採用の募集があることを教えてもらったんです。鶴岡市の社会人採用枠募集の1年目でした。「市の広報に市の職員の応募が載っているよー」と言われました。漠然と帰ろうかなと思っている時にその情報をもらい「やってみようかな」と思いました。建設会社に勤めていたので、インターネットで鶴岡の建設会社やそれに似たような仕事を探していたんです。

(※)平成27年度から鶴岡市職員募集の年齢制限を少し引きあげて、資格を持っている人を市外から呼び込もうという中途採用枠ができました。平成30年度の鶴岡市の一般職は35歳未満、専門職は40歳未満となっています。

(写真 アートフォーラムにて)

―Uターンすることに奥様は賛成でしたか?

櫻井さん:妻は仙台生まれなので、最初は「なんで?」って言われました(笑)。「いずれは帰ろう」って話をしていたんですけど、そんなに早く帰るとは思ってなかったみたいで。でも、今まで仕事の都合で他の所に転々としていて、単身赴任が多かったんですよ。私が家に帰るのも日曜だけとか、だから子供が幼稚園の時は、お父さんは週末しかいないものだって思われていました。妻にとっても一人じゃ大変でしたし、子供たちにも寂しい思いをさせているのかなと思い、それで妻も納得してくれたのだと思います。

 

―移住を考えたきっかけには、東日本大震災のこともあったと伺いましたが。

櫻井さん:地震のとき盛岡に自宅があり、妻は仕事、子供たちは幼稚園にいました。私は自宅から1時間位のところにある会社の宿舎にて夜勤明けで寝ていたんです。地震に遭遇し、自宅を見にいったのですが、家族と連絡が取れずとても不安な思いをしました。その時、家族は一緒にいた方がいいという思いが強くなりました。沿岸の方に調査で行ったのですが、津波で全部流されてしまった状況を目の当たりにすると、家族と離れて暮らすのは不安だなあという思いもありましたね。建設会社に勤めていたので、震災後は構造物の復旧に向けて、壊れた箇所の調査や、応急工事など色々な仕事がありましたが、その後のどうやって本格的に復旧していくかという計画については、施工業者なので分からないんですよ。復旧工事より、どういう風に復旧させるかというまちづくりや計画の方をやりたいと感じるようになりました。

(写真 アートフォーラム前にて)

―実家の親御さんは帰ってきて欲しいという感じだったんですか?

櫻井さん:そうですね、親は早く帰って来いっていう感じでした。自分としては定年後というイメージだったんですが、親が一生懸命情報を収集して、「これが載っていたよ!」と知らせてくる感じだったと思います。前職は大変でしたが好きだったので、そんなに早く辞めようとは思っていなかったんです。もし市の採用試験に受かっていなかったら、多分まだ鶴岡には帰らないで、前の会社に居たかもしれないですね。

 ―市の採用試験を受けるにあったって、大変だったことはありましたか?

櫻井さん:新卒の一般職だと一般教養と面接になると思うのですが、私の場合、全て土木関係の専門試験でした。社会人を雇うので、自分が入ったらどういうメリットがあるのかというテーマの作文試験があり、自分の経験を生かせないとダメだと思いました。筆記試験のとき、土木職で7、8人いたようでしたが、実際に採用されたのは3人でした。社会人ですので、仕事をしながら勉強をしましたが、単身赴任中だったので、自分の時間があるのが良かったです。夜は、仕事が終わって遅くに帰宅するので、朝早く起きて勉強しました。受けようと思ってから試験まで3ヶ月くらいでした。市販されている公務員試験の土木専門試験のテキストで勉強しました。

つづきはこちら・・No.27 後編 「一度地元を出て、地元に戻る」という経験そのものが武器になる

 

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