No.37 幼い頃から大好きだったこの場所に「人」を呼び込みたい。

加藤博紀・あさ野さんご夫妻は2018年4月、鶴岡市羽黒に移住し、【羽黒・芸術の森】にレストラン「oven Kato(オーブンカトウ)」をオープンしました。東京・吉祥寺で10年間飲食店を営んでいたお二人がどのような経緯で移住に至ったのかお話を伺いました。

 

【羽黒・芸術の森】

単なる美術館ではなく、アーティストや地域の人々が気軽に集える「拠点」にという構想のもと、敷地全体を「羽黒・芸術の森」と命名。美術収蔵館を「今井アートギャラリー」、旧アトリエを「工房いずみ」の庭を「羽黒の小さな森」と分け、2016年春にリニューアルオープン。

―叔母の葛藤、孫たちの葛藤

あさ野さん―祖父が地元を代表する画家(今井繁三郎)だったこともあり、羽黒に祖父の作品を展示する美術収蔵館やアトリエがありました。祖父には4人の娘がいて、末の娘である齋藤木草を除き、皆東京で暮らしていました。私たち孫は総勢13人いて、東京でもよく会っていたのですが、夏休みなどに、ここ羽黒に集まることを楽しみにしていました。滞在時は、この敷地内を走り回ったり、皆で一列に座ってトウモロコシを食べたりした記憶があります。皆羽黒が好きだったので、学校の行事や部活動が忙しくなっても、それぞれのタイミングで遊びに来ていましたし、いつ来てもよい場所としてずっとあるものだと私たちは思っていました。しかし、祖父が2002年に亡くなり唯一地元に残っていた叔母家族だけの維持管理が困難な状況になってしまって。2014年に美術収蔵館の一時休館を決めました。

あさ野さん―休館して暫くしてから孫世代が集まって、今後のことについて話し合いの場を持つことになりました。叔母の近くでその大変さをずっと見ていたいとこ達からは「このまま閉館した方がいい」という意見も出ました。資金面でのこと、いとこ達もそれぞれの暮らしで手一杯であったこともあり、遠くにいる私たちがそんなに簡単に続けたいとは言えませんでしたが、話し合いの中で、私の姉が「今井繁三郎」は私たちのおじいちゃんだけではなく「公の人である」と考えなくてはいけないのでは」と言ったのです。その言葉で、いとこ達の気持ちが「続けよう」と動いたのだと思います。そして最終的に、叔母の長男である健太郎(現在の羽黒芸術の森の代表)が「続けたい」と言ってくれて。私も皆が集まるこの場所を残したいと思っていたので、その為に何かしなければと強く感じました。

―皆に「行ってきます」って報告をしてから行きたかった

 あさ野さん―そこで、「いとこ会」と称して、東京でも何度もいとこ達と集まり美術館を訪れてくれる人を増やす方法を考えていた時に、生前の祖父の言葉を思い出したのです。「食があれば、ここに人が来てくれる」と。「食」の仕事をしていたのは私しかいなかったのですが、考えれば考えるほど「私がやるしかない!」という気持ちが強くなってきて。もちろん、夫からゴーサインをもらえたらの話だったのですが(笑)。私も夫も吉祥寺の街が大好きでしたし、都外で暮らした経験のある私と違って夫はずっと東京で暮らしていましたから。

博紀さん―吉祥寺のうちの店で、「いとこ会」をしている姿を見ていたので「そのうち言い出すだろう」と静かに見守っていました。妻が言い出したら止められないとも思っていたので(笑)。なので、移住・移転するとなったら、自分たちの準備だけではなく、今までお世話になったお客さまに対しての対応など考えると、準備の為の期間が2年必要だろうと冷静に捉えていました。

あさ野さん-皆に「いってらっしゃい」って言ってもらいたかったし、皆に「行ってきます」って報告をしてから行きたかったので。なるべく本当に良い形で動きたいと思いました。吉祥寺のお店があった場所は、特に親子3代同じ小学校中学校出ていますという地域だったのです。もう親世代も知り合いだし、子供たちはみんな同級生や先輩、後輩であったりする訳です。そんな場所でずっと飲食に関わってきたので、いろんなことを簡単に放り出したくなかったんです。「移ります」って言えたのは移転をする1年前位かな。お店をオープンしてちょうど9年でした。心のお守りというか「吉祥寺で10年やりましたっ」と言って店を移したかったのです。そうでないと踏ん切りがつかなかったというのもあるし、ちょうどギャラリーの方もそれ以上おいたら多分修繕が追いつかなくなるだろうなというギリギリのタイミングだったんです。

博紀さん―このままずっと吉祥寺で店を続けても、東京しか知らないで一生を終えてしまうのはもったいないとも思いました。そういう気持ちがぼんやりとあったんですよ。東京以外のところを知るチャンスだと考え、それもまたいいなって。飲食業って基本的に転勤がないので、なんとなく憧れていた転勤を経験できるのかなって前向きに考えて、2年かけてゆっくりと準備を進めることができました。

―生活を楽しむという発想

Q.移住するにあたって大変だったことを教えてください。

A.引っ越しに伴い、吉祥寺の店を1月に閉めたんですよ。一か月で片付けて3月のオンシーズンの前に引っ越そうと思っていたのですが、なんと羽黒は雪で引っ越しできるわけないでしょって言われて(笑)。結局4月に引っ越したのでその間の活費等が結構削られましたね。しかも今回は生活用の引っ越しと、お店用の引っ越しもあったので結構大変でした。加えて、大変なのは祖父が暮らしていた家がボロボロなのに修繕にかけられるお金が限られているし、予算の許せる範囲で直すのは大変でしたけど、それでも面白かったというのが正直な感想です。基本的には、自分たちでやるという選択肢しかなく、床を剥がしたり、カーペット敷いたり壁も自分たちで全て塗り直しました。東京にいた頃はDIYをしたことがほとんどなかったので、こちらにきてだいぶスキルが上がりましたね。ここだったら壁も自由に自分の好きな色にしたり、ビスを打ち込んだり何でもやりたい放題にできたので、大変でしたが楽しい毎日でしたね。

 Q.生活を始めてからのご苦労があれば教えてください

A.こちらに来たのが4月でまだ寒かったのですが、ずっと空き家だったせいもあり湿気が酷くて、洗濯物を干すと脱水をかけたのにどんどん湿気で重くなってくるみたいな感じでした。箱に入れたまま積んでおいた洋服や靴や全部カビてしまったり。

その時はさすがにやっちゃったなあと凹みました。やはり人が住んでいるのと住んでないのとはこういうことなんだなって実感しましたね。もちろんそれは空き家だったからなので、今は随分良くなりました。

―季節で仕事を変えるという暮らし方

 Q.oven Kato(オーブンカトウ)をはじめてからの暮らし方を教えてください

A.営業期間は4月中旬~11月下旬に設定しています。レストランは冬も休まずできたらいいなと思っていたんですが、鶴岡に来てみると、冬の間は特に外食率が下がる様に感じました。店やギャラリーがある場所は200mほど農道を入った先にあるので、雪が降ると車が入って来られなくなってしまうのです。琴平荘の様に冬だけラーメン屋さんにするとか、そういうアイディアがあってニーズを見つけ生み出していかないと難しいなと感じました。だから季節で仕事を変える生き方や生活もありなんだなぁと思い、冬は店を閉めてどこかで働きに出ようかなと。灯油を運ぶ仕事が冬にあるとも聞いていたので、危険物取り扱いの免許を取っておこうと思い秋ぐらいに勉強し、11月には免許を取れたのですが、その頃には既に冬の仕事の契約が終わっていたんです(笑)。そんな時、知り合いから近所の造り酒屋さんで一番番苦労したのはやっぱり庄内弁で(笑)、酒蔵でも「んだの」という意味の「イエス」「んでね」という意味の「ノー」の違いすら分からず、未だに1回では聞きとれない事も多いです。庄内弁をマスターするのは、雪道運転以上険しい道のりかもしれません(笑)。

―気軽に皆が訪れる場所に

Q.今後やっていきたいことがあれば教えてください。

A.あさ野さん-祖父母に会いに行くと同時に、この場所に来ることが大好きだったのです。少しでも長く居てもらう仕組みを考えているところです。自分たちがここで遊んだように、沢山の人がここに集い、思い思いに過ごしてもらえる様になるといいなと思っています。

「羽黒芸術の森」という複合施設の中で、美術館で絵を楽しむ、レストランで食を楽しむ。じゃぁ森の楽しみ方をどう突き詰めていこうかということを、皆でいろいろ考えて、遊歩道作ったり、ハンモックで遊んだりできるようにしたり。ここのは元々なかったアカマツとか、ヒマラヤ杉もあるんですよ。この庭の木は開墾した時に祖父が植えた木もたくさんあるので、木の名前が分かると庭を歩く楽しみも増えるのではと。そして子供たちには、木にのぼったり庭をかけまわったり思いっきり遊んで欲しいですね。私たちが子供の頃に学んだ様に「危機察知能力」を身につける場であり続けたいと思います。

(文:草島侑子)