今回の移住者インタビューは、2012年11月に山梨県御坂町から移住し新規就農された丸山淳(じゅん)さんにお話しを伺いました。
丸山淳さんは知る人ぞ知るプロのスノーボーダーとしてご活躍されていた方。東京都唯一の村、桧原村(ひのはらむら)のご出身で、21歳のときに山梨県御坂町(みさかまち)に移住しました。御坂町は実家のある桧原村からは車でわずか1時間たらずでしたが、実家からは通わず、そこにあるオールシーズン対応の屋内ゲレンデのスキー場で働きながら、プロのスノーボーダーを目指していました。
「当時唯一ハーフパイプのある室内ゲレンデということで、御坂町の屋内ゲレンデには全国からプロのスノーボーダーを目指す人たちが集まってきていました。そこに山形からきて一緒に働いていたのがいまの妻の弟でした。そして、彼の家に遊びにいったときに、姉である妻(若奈さん)がいたわけです。」若奈さんも当時スノーボードをしていて、夏は屋内ゲレンデ、冬は雪山にと二人で年中スノーボードにでかけていたそうです。
( 写真提供 丸山淳さん )
移住しようと思ったきっかけは?
「結婚してからも山梨県御坂町に住んでいましたが、2012年に子どもができたこともあり、どちらかの実家の近くで暮らそうと考えはじめました。御坂町での暮らしの中で、農業に興味があり、桃や葡萄を栽培する農家さんの手伝いをしていました。当時、妻の実家から送られてくる食べ物、特に野菜がすごく美味しくてびっくりしたものです。そして鶴岡に行ったら農業をやろうと、向こうにいるときから決めていました。」そう淳さんは振返ります。
「子どもが7月に生まれてその年の11月には移住したので、移住しようと思ってからは早かったです。まず仕事をみつけなきゃと、湯殿山スキー場の就職の面接のあった9月に6回くらい山梨と鶴岡を行き来しました。すごく遠かったのですが、何度か通っていくうちにだんだん近く感じるようになりました。」淳さんは、実はスノーボードのハープパイプ全盛期を支えた一人としても知られ、数多くのスキー場の常設のパイプ、パークを重機のオペレーターとして日々、昼夜を問わず整備をしたり、また、スノーボードのイベント等ではスノーコンディンションの管理等も務めてきました。淳さんはいいます。「雪上車を操作するのは特殊技術ですので、どこのスキー場からも来てくれと言われます。農閑期の冬に仕事にありつけるのはありがたいことです。11月1日から湯殿山スキー場で働くことになり、それに合わせ引っ越ししました。『半農半X』ですが、あくまでもベースは農業です。スキー場での仕事は冬期従業員ということになります。」
( 写真提供 丸山淳さん )
移住するにあたり、迷いや不安なことはありましたか?
「鶴岡には結婚が決まるまで一度も行ったことがなかったので、未知の世界でした。結婚して何度か行き来はしましたが、野菜が美味しいということに加えて、雪深いということで一石二鳥な場所だと思っていました。移住後は、働きながら農業をどうしていこうかとお父さんや妻の弟と話し合いながら、計画しました。妻の弟が先に帰省して、農業を始めていたし、妻の父は市の新規就農アドバイザーもつとめており、いつもありがたいと思っています。鶴岡に来てよかったのは、スノーボードが続けられたこと。仕事は農業をしてもスノーボードは続けたいと思っていましたから。僕にとっては、雪が降ることは、小さい頃から嬉しいことでした。子どもの頃、鉛筆が埋まるくらい雪が降ると学校が休みになるんです。つまり雪が降ることは嬉しいことでした。雪が降ると、外に出て鉛筆をいれて、『埋まったよ~!』と言って喜んでいました。それから、住んでいた所は、東京都といえども田舎でしたから、登校でもバス停まで1時間かけて歩いていました。山道で行きは下りで、帰りは登りでした。実は、父親も山好きが高じて都心から桧原村に移住したのです。僕は、4人兄弟の二男で、家に兄貴と妹がいるから、どこに行っても自由だったわけです。」
( 写真提供 丸山淳さん )
「実家の両親は、よく鶴岡に手伝いにきてくれます。鶴岡の印象がいいので、稲刈りや収穫で忙しいときに手伝いにきてくれないかというとすぐ手伝いにきてくれるんです。父も野菜を育てて食べるという自給自足の生活をしていますから。今まで雪が嫌いと思ったことはありませんでしたが、こちらに来てみて少し雪が嫌いになりました。除雪が大変です。屋根の雪下ろしや雪囲い、いろいろな準備が大変じゃないですか。生活していく上で大変です。雪深いところに、今までも出かけていましたが、生活する上での雪は大変ですね。費用も労力も大変です。お日様が照らないのは平気ですが、雪が多いことや、風も強くそれが結構つらいですね。今まで経験したことがなかったので、しんしんと降るというのではなくて常に吹雪なのでびっくりしました。生活の雪と遊びの雪は違いますからね。」
( 写真提供 丸山淳さん )
就農について聞かせてください。
「いま、民田なす、赤カブ、蕎麦、米を作っています。メインは米作です。民田なすは朝方と夕方と収穫が2回あり、弟たちと一緒にやっています。お米は60アール、その他が40アール。ちょっとずつ大きくしています。米と蕎麦は自分がやっています。お米と赤かぶと民田なすの他は妻の実家から農地を借りてやっています。やり方は妻の父や弟から学んでいます。利用した支援制度は、新規就農開始型の助成金をもらっています。」
就農するにあたって不安なことはありませんでしたか?また、就農してみて感じたことはありますか?
「新規就農するにあたって、金銭的にすごく不安でした。いったいどのくらい稼げるのか。やってみて想像以上に大変だなと実感しています。時給で計算するのがちょっと怖い感じです。妻は子どもを保育園に預け、地元の建設会社の営業をしています。来てみて凄く思ったのは、鶴岡は想像以上に食の文化が盛んで、食べ物が美味しいと思うことです。来てよかったと思います。また妻の同級生に農業をしている人がいて、その仲間と仕事の合間を見て山に一緒に行き、月山筍やキノコなどの収穫もしました。こんなに天然のものが充実している地方は他を探してもないんじゃないかと思います。ここは、本当によい所だと実感しています。」と嬉しそうに淳さん。「四季折々で行きたいところが変わっていくのも魅力が詰まっていると思います。今までは、スノーボード一色だったので、冬が来ないと楽しめなったのですが、こちらに来て四季を感じながらいろいろな楽しみ方ができるのがいいと思いました。海もありますしね。」
( 写真提供 丸山淳さん )
これから新規就農を目指す人へのアドバイス。
「自分は妻の実家に助けられいるので恵まれていますが、そうでなく一からやるのは本当に大変だと思います。農業はやってみて本当に難しいと感じているので、自分がアドバイスできるのか微妙ですが…」どう話していいのか言葉を探しながら、淳さんはいいました。「地域の人と仲良くなるというのが大事ですし、地域の人に溶け込むのを優先していくのがいいと思います。自分は周りには親戚も多く、本当によくしてもらっています。農業をやっていく上で地域のコミュニケーションは、本当に大切だと思います。孤立して農業をやっていくことは不可能だと思います。水一つとってもそうですよね。ですから、地域の人とのコミュニケーションを楽しめる人はいいですよね。」
( 写真提供 丸山淳さん )
子育ての面で感じることはありますか?
「やっぱり実家が近いので、子どもをみてもらえるのはいいです。それはすごく思います。二人あのまま山梨にいたら、やっていけなかったとすごく実感しています。年に2、3回くらい子どもを雪遊びに連れていったりしています。実は、妻は山梨では、住宅営業をしていて、すごいハードワークで、帰宅が夜中になるような生活で、店長にもなっていて帰れない、休めないという感じでした。妻はお金を払ってどこかに預けないと子育てはできないと思っていたそう。できればこっちに帰ってきたいと思っていたようですが、仕事も任されてやっていたので、帰りたい気持ちもありましたが、実際には、難しいと思っていたようです。それで彼女から帰りたいとは言い出せなかったのですが、僕の方から帰ろうと言いました。」
( 写真提供 丸山淳さん )
これからやってみたいことはありますか?
「キノコ狩りに行ったり、四季を楽しめてやっていけるところが今、とても楽しみの一つです。毎日でも行きたいですね(笑)。月山筍とりは修行です。山に行ったときは肉体的に辛すぎてもうだめと思うのですが、また行きたくなるんですよね。熊に遭遇したことがあるんですよ。羽黒にワラビの畑があるのですが、ワラビの仕分けをしているときにガサガサ音がしていて、『山菜採りの人かな?くまかな?』と思いながら車の中に逃げたら、めちゃ大きな熊だったんです。7月くらいだったのですが、熊ってワラビを食べるんですね。キノコ狩りにはまだ連れていってもらっているから大丈夫ですが、一人では怖いです。熊を見たのは生まれて初めてだったのですが、実際みたらビビッて怖かったです。」
( 写真提供 丸山淳さん )
「『海もいいよ』とよく言われるのですが、見るのはよくても、中に入るのは怖くて嫌いです。本当に溺れそうになったのでトラウマになっています。妻はサーフィンもするので、よく海に行こうと誘われますが自分は遠慮しています。また子どもがアンパンマンを好きなので、アンパンマンショーに連れて行ったりしています。冬には、スキー場に何度か連れて行きます。家族と一緒にこの土地での暮らしを楽しみながら、これからもがんばっていきたいと思っています。」新規就農という新しい選択をし、誰よりもここでの四季の楽しみを感じながら暮らしている淳さんの笑顔が印象的でした。
( 写真提供 丸山淳さん )
( 写真提供 丸山淳さん)
(平成27年8月24日・9月19日 文・写真 俵谷敦子)
コメント
松沢です初めまして、おそらく丸山さんが生まれた頃の38年前に、鶴岡駅裏に工場を設計し稼働させる為に2年間公園の近くに家を借りて住んでいた。同僚の家が農業と炭焼きをしていたので、炭焼きの手伝いや雪上げの手伝いをしていた時 そんな生活がいいなと憧れていましたが あれから36年今では自然エネルギーの太陽電池や風力発電に水力発電などの仕事をしているが、これから慣れない農業より山仕事をしようと思っていて、丸山さんの移住する内容を読んでいてその勇気と行動力に感動しました。読ませて頂き有難うございました。