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No.23-前編 メンターになる人との出会いと地域に合わせた生き方への転換

今回の移住者インタビューは2012年にIターンされた、埼玉県三郷市出身の芳賀崇利さん(38才)にお話しを伺いました。芳賀さんは現在、ウェブ制作やDTPデザインなどのサービスを提供する会社を経営し「庄内コンシェルジュ」を運営しています。現在、奥様とお子さんの3人で暮らしています。

(写真提供 芳賀さん)

最初に庄内に来たきっかけは?

芳賀さん:僕が小学生の頃に親父の会社が酒田にあったので、夏休みなどを利用して何度か一人で電車に乗って埼玉から酒田までに来たことがありました。酒田駅を降りるとちょっと訛った感じで「酒田~酒田~」っていうのが子供ながらに印象的でした。単身赴任だった親父は途中から酒田で会社を始め、僕が20歳くらいの時に会社が鶴岡に移りました。実は、22歳の頃に一度、親父の会社を継ぐつもりで入社し、鶴岡で暮らしているんです。でも1年で辞めて埼玉に戻っちゃったんですけどね。その後、もともと働いていた建築関係の職種に戻り、20代後半くらいまで働いていました。

芳賀さん:現場は東京都内が中心だったため、毎日作業着で電車通勤していたんですよ。満員電車には同世代の人たちがお洒落な細身のスーツを着て通勤していて、土日になるとあれだけギュギュギュウだった電車がガラガラになる。ある日、急にそういう人たちの働き方というか、「この人たちはどんな仕事をしてるんだろう」って、すごく興味を持ち始め、輝いて見え始めたんですよね。そして20代後半に「俺もそんな仕事がしたい!」「スーツを着た仕事がしたい!」って、本当に単純な理由で転職を考え始めたんです。

芳賀さん:そして神奈川県相模原市にあるプリント基板製造会社で念願の営業の仕事に就きました。ところが入社間もなく、過度な設備投資とリーマンショックの影響が重なり、会社は忽ち経営不振に陥り、民事再生法による会社再建も叶わず、投資ファンドに買収されてしまったんです。新会社設立による新体制。営業経験が浅かった私は新会社に残れたものの、営業部から開発事業部に異動するよう辞令があったんです。リストラだけで100名以上いた従業員が半分になったんじゃないですかね。それでも納得がいかず、社長と直談判し、「業績が良くなったら営業部へ戻してくれる」という約束を交わしたのですが、どうしても続けたかったので、会社を辞めることにしたんです。

鶴岡で暮らすようになったのは?

芳賀さん:神奈川の会社を退社してから取引先だった会社からお声がけをいただき、東京都台東区の御徒町にある商社に入社しました。その数年後、その会社を辞めようかと知り合いの商社の社長に相談していたところ、社長さんが辞めるならうち来いと声をかけてくれたんです。その間に1ヶ月ほど余暇があり、今までのこと、これからのことをぼんやり考えていると、ふと親父のこと思い出したんですよね。久しぶりに親父に電話したんです。

芳賀さん:そうしたら親父から「跡を継ぐ人もいないし、会社を辞めることにした」と聞かされ、自分の近況を話すうちに、「久しくあってなかったから会いに行ってみるか」と、観光でも行くような感覚で鞄ひとつ持って鶴岡に来たんです。声をかけていただいた社長さんに仕事をお断りし、そのまま鶴岡に残り、約5年がたちましたけどね(笑)実は、自分は東京でバリバリやってきたつもりでいたので、自分は喉から手が出る人材だって根拠のない自信があったんです(笑)。仕事なんかすぐ見つかるだろうって。だから最初の頃は仕事に関しては何も心配していなかったんです、とりあえず住んでみようかなって。

どんな仕事をしようと思ったのですか?

芳賀さん:とりあえず営業ならなんでもいいかなって思っていました。ハローワークに載っていた企業の4社くらい営業職で受けたのかな?でも全部だめだったんですよね。すごくショックでした。面接の冒頭で必ず「なぜこっちにきたのですか?」と聞かれるんです。生まれは埼玉ですが、親父がこっちにいてと言うと、「なんでお父様が心配で来たのに一緒に住まないのですか?」と言われ・・・。仕事の面接なのに、家庭の事情なんて別に関係ないじゃないですか。生意気なので面接の途中で、「一人暮らしすることってそんなに特別なことですか?」っていっちゃう訳ですよ。それだけが理由じゃないと思うんですけど、ことごとく全部落とされてしましました。(笑)商社でやってきた自信が「え。。。」ってなったというか。落ち込みましたね。

芳賀さん:ハローワークって一件ずつしか受けさせてくれないじゃないですか。そうすると一件応募すると書類選考で一週間、面接で一週間かかり、そこから合否に一週間かかるので、トータル3~4週間かかるんですよ。庄内に来て半年近くがたった頃、ようやく一社採用してくれた会社があったんです。本当にその会社には申し訳なかったのですが、3ヶ月で辞めてしまいました。まだ腹がくくれてなかったというか、向こうにいた頃と常に比較していたんですよね。給料の面とか、休みの面とか、こんな事をするためにここに来たのかなって。自分でしか出来ない、庄内らしい鶴岡らしいことをすれば向こうにいた時と比べることはできないじゃないですか。そこで「庄内コンシェルジュ」というものを立ち上げようと考え始めました。

芳賀さん:正直何度も帰ろうかなとも思いました。やっぱり面接で失敗すると、俺もうだめなんじゃないかって思う訳ですよ。営業というものを武器にこっちで就職することに対して。ある会社から、東京で営業の仕事をいくら頑張ってきてもこちらでは通用しないって、面接で言われたんです。今だからわかるのですが、こちらは、人脈というか人の繋がりが強いじゃないですか。営業の手法とかそういうものじゃなく、後になってそこがものすごく大事ってことに気づかされたんですよね。

 

庄内コンシェルジュはどのように立ち上げて行ったのですか?

芳賀さん:自分で何かできないかといろいろ、インターネットで探しました。そしたらある会社のホームページにたどりついたんです。そこではシステムを販売してるんですが、僕みたいにWebの知識がなくても運用できるシステムをライセンス契約できるんです。その時、「自分にもできるんじゃないか?」って思ったんです。まだ漠然と「こういうのがあったら面白いな」とか、「これだったら出来そうだな」とか。ウェブサイトについて本とか読みまくってメチャメチャ勉強しましたけどね。

芳賀さん:個人事業主として立ち上げたのは、鶴岡にきて2年目の冬です。最初はとにかく上手くいきませんでした。はじめは、あまり知り合いもいなくて、閉ざしてたというか、地元の人にあまり心がひらけなかったんです。矛盾してますよね(笑)。住むって決めているくせに、この頃ってまだ自分が就職できないことなど、地域のせいにしてたんですよ。「なんで俺を認めねえんだ」って。「分かってねえな」って。

芳賀さん:一番最初に営業に行ったお店が、親父が仲良くしてる人の店で、そこから色んな人を紹介してもらい、知り合いを広げていったんです。知り合いは増えていったのですが、『庄内コンシェルジュ』のサイト自体を、本当に誰も見てない訳ですよ。どうやってプロモーションしていったらいいかも分からないし。載せてくれる人もいないし。結局情報量が無さすぎて誰も見ない、見ないから載せないという負のスパイラルがあったんです。

芳賀さん:そこで、とにかく無料でもいいから載せてみようって思いました。最初にやったことは「お試しキャンペーン」です。まず媒体として情報量の多いものにしようと思い、そこにプラスして、載せてもらったお客様から紹介してもらうという風に広げていきました。少しずつ人脈も広がり、鶴岡青年会議所のメンバーとの出会いもありましたし、とにかく人が集まりそうなところがあればとりあえず行ってみましたし、今でもそれは続けるようにしています。

(写真提供 芳賀さん 赤川花火大会運営仲間と)

戻ろうと思ったのに踏ん張ったその理由はなんですか?

芳賀さん:意地ですよね。今でも思いますけど、帰った方が楽なのかな?って。給料水準も高いですし、なにより子供の頃から向こうで育ったわけですから。でも友達とかにも鶴岡に住むって宣言してきたのに帰るのは格好悪いじゃないですか。何もできずに帰って来たって言われたくなかったし、自分に「ここに何しに来たんだよ。」と自問自答でした。


芳賀さん:戻ろうかと迷ってた時期にある男との出会いがあるんですよ。日本西海岸計画の池田友喜が僕にアプローチしてくれたんです。どっかから僕の情報が流れてきたみたいで。俺を囲む飲み会をしてくれたんです。それまで移住してきた人との出会いが全くなかったので。まぁ自分が閉ざしてただけなんですけど、そこで彼と会って、こういう人もいるんだと思い始め、そこで自分も堂々と移住者だって言えるようになったんです。それまではよそから来たと言うと逆に入っていけなくなると勝手に思ってたところがあったんです。こんなにUIターンしている人がいるって知った時にすごい勇気をもらったんですよね。プライベートの部分でちょっと休めるとこが見つかったというか。本音を言えて励ましあえる人が見つかったので楽しくなっていきました。

(起業されてからのお話は後編で・・)

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